ちょっぴり残念な「努力家」な人

努力をする人、じつは多い。
多いどころか、ほとんどの人は、努力をしている。
コツコツと勉学に励み、目的を成し遂げるまでは、最後まであきらめたりはぜず、常に自分の信じる道を粘り強く突き進む。
いつも脳内のイメージは、最高の瞬間を映像として切り取り、見えないはずの成功モデルが頭をトントンしてくる。
体中に流れる血液はふつふつと沸騰し、瞳の中にイナズマを走らせ、今日も努力家は疲れ果ててしまった心身をドサリ、とソファ-に預ける。
努力は美しい、努力ってステキだ。…だろ?
あぁ、オレの努力に乾杯。「がんばったで賞」をオレに授与しよう。
多くの努力家は、努力は絶対、努力は苦労、努力は報われる、努力は報われるとは限らない、努力は退屈・・・
努力って何なのか、なにをもって努力というのか、自分は努力をしている、自分の努力は足りているのか。
努力ってのは、それぞれの目的を達成するまでのギャップをうめるまでの、一部始終の全てがそれであって、何が努力で、何が努力でないかは全く持って、基準にはならないのだ。
努力をする人、じつは多い。
多いどころか、ほとんどの人は、努力をしている。
ギャップを埋めるまでのライフワークそのものが努力でありそうだが、別に努力でないともいえるはずなのだ。
確かに努力は賞賛される。がんばる姿はだれもが、「よくやってる」と評価する。
結果を求められる職場においては、重宝される人間ではある。はず、なのである。
「努力をする人」と「努力家」は違う
しかし、「努力をする人」を「努力家」に昇華させしまうがゆえ、中には歪んでしまった、「ちょっぴり残念な努力」をしてしまう人もいる。
「隣の芝生が気になる」タイプの努力家だ。
「そのスーツおしゃれだねー。どこで買ったの?」「何か高そうだねぇ。」「最近なんか、調子よさそうじゃん。何があったの?」
「やっぱ違うは、お前は、スゲーは。たぶん。」
どうでしょうか。こういうなんか、ほめてもらっているようにも聞こえるが、どーもなんだか、引っかかる言い方をしてくる人。いるよね。
やたらと、相手の動向をチェックしたり、相手がうまくいったことに敏感になり、やたらと褒めちぎってくる。
こう言うタイプの人は、単に賞賛しているようだが、含まれる意味が若干、違っている。
結局、周りの人のレベルや状況を知ろうとしているのだ。その答え聞いて、ひとつでも「自分のほうが劣っている」と感じると、このタイプの本来の「顔」が見えてくる。
このタイプの努力家は、確かに、がんばってはいる。
がんばってはいるのだが、常に誰かと「競争」しているのだ。
「良きライバル」とはいったりするが、競争相手が本当に良きライバルなら、堂々と舞台に上がり、互いに切磋琢磨しながら高め合える、健康的な関係にあるはず。
しかし、違う。どうも違う。
どうも、お互いが「ライバル」としての土俵に立ってはいない。
あきらかに、「オレが上、おまえは下」でなければならない位置関係を保とうとするのだ。
あなたもこんな経験ありませんか?
自分が何かうまくいったことがあっても、そういうタイプの人の前では、下手に喜んだ姿を見せずらい。
なんなら、うまくいったことがあっても、ダメだった、とウソでもとりあえずいっておいて、変に嫉妬感をあびせられたくない。とか。
いるよね。平たくいうと、「めんどくせーやつ。」
いちいち競争相手にしてくれるなよってひと。
自分はそんなつもりじゃない。じゃない。じゃないのに、勝手に競争心をあおってくるやつ。
ほんっっっと、めんどくせぇ。言い方、ちょっと悪いけど。
こう言うタイプの人は、学生時代から何事もコツコツと真面目一本で努力してきた可能性が高い。
努力は美しい、努力ってステキだ。努力をしている自分は絶対なのだ。と。
ひとつひとつ着実に、社会人になってからもコツコツ、コツコツと真面目を貫き、努力している自分に酔ってしまっている。
証明したい努力家の「目的」のズレ
だが、本当は、コツコツ努力を積み重ねながらも、成果はでない。その事実を身を持って知り、そこから立ち上がれるかどうかという瞬間に、立ち上がろうとすることが、「努力」なのだ。
努力そのものが、努力ではない。自ら「オレは努力をしている」と自己判断するものではなく、あくまで自分の努力は、他者の評価だ。
自分自身は、常に自己研磨に努め、後になってから、あのガンバリは間違いではなかったと気づくもの。
信じがたいが、努力って、自分で実感しているようでは、まだまだ努力し続けているとはいえいものなの。
努力している最中は、目的を達成するための「目的」しか頭にない。
周りの評価は、いい? 悪い?
じゃぁ、いい時は努力していて、悪い時は努力していない?
そんなわけないよね。目的は「ソレ」じゃないから、全然、じゃないから。
他人の状態がどうか、自分よりも上? 自分よりも下?
他人よりも上だったら、努力していて、下だったら努力が足りないのか。
んなわけねーよ。努力の目的は「ソレ」ではまったく示されないから。
だが、隣の芝生が気になるタイプの努力家は、真面目すぎるがゆえ、「努力すれば報われるにちがいない」と真面目に思い込んでしまうので、目的が「ソレ」で自己評価しようとしてしまうのです。
悪気なない、ないのは確かです。しかし、「成功者の成功体験」がやたらと大好きで、そういった本とか、動画とか、セミナーとかに食いつくように浴ようとしてばかりの事が多く、
華やかな成功の裏側に潜む「影」の部分を自ら体験することの方が実は重要だという事に気づかず、「成功者が結果的にこんな努力をしてきました」っていう、「光」の部分を模倣してしまっているようだ。
だが、その「光」の部分は、努力をしてきた結果によって輝く光となっているのであって、努力をしている最中は、一寸の燈火さえも灯してしないことの方が多いもの。
見えないのだ。成功者の努力によって灯された光は。
弛まぬ努力をしているそのときに灯される火は、その人の心の中でしかメラメラと燃え上がっているから、誰も見えたりはしないのです。
しかし、なぜ、隣の芝生をやたらと気にしてしまうのか。
努力家よりも「情熱家」であれ
周りから「賞賛されたい」「すごーい」って我をたたえてもらいたい、目的が、「ココ」になってしまっているためだ。
自分はどのくらいのレベルで、現在どの位置にいるのだろうか。周囲からどのように思われているのだろうか。
気になる、気になって仕方がない。どうすれば「ソレ」がわかり、いかにして「ココ」という目的が得られるのだろうか?
真っ先に気にするのは、遠くの手の届きそうにない雲の上の存在にいる人ではなく、誰よりも「自分と似たようなバックグラウンドをもつ人間(ライバル)」、すなわち「隣の芝生にいる人」と比較してみるのです。
その人間が自分よりも華やかで評価が高いと感じると、強い嫉妬心を抱いてしまう。
コツコツと真面目に粘り強く、がんばり屋な向上心の強さが、嫉妬の炎に火をつけ燃え盛りはじめると、相手をどうにか抜いたという感覚を得たり、上段から見下しているんだぞ、と自覚するまで消火できない。
また、他の誰かが「キミの方が立派だ」と、口にしてもらわないと納得がいかないのである。
せっかく努力ができるがんばり屋であるはずなのに、努力そのものを讃えすぎがゆえ、その場ですぐに「評価されたい」、勝てそうな相手と比較して勝ちを証明したくなり、違った原動力にたよる歪んだ努力をしてしまうのだ。
はっきりいうが、この隣の芝生をやたらと気にしてしまうが伴う努力は、自らの影の部分をみようとしない、ある種の「逃げ」です。
人は、他人と比較することの方が簡単なのです。昨日の自分と比較することの方がじつは、難しかったりする。
なぜか。自信がないからだ。自信がないから「持ちたいと努力している自分」の姿で自信を持ちたいと思うからだ。
だけどね、自信なんてものは、もてばもつほどうぬぼれてしまったりするし、自信がなさすぎるとヤル気そのものを失ってしまう。
だから、バランス的にはプラスマイナスゼロ(±0)の状態、つまり、今の等身大の、今の自分の状態でいる、それを受け入れ認める覚悟を決めてしまうことが、最もいい状態でいられるものなんだ。
むやみに、他人他人からの評価を求めたところでどうなる?
やたらと、隣の芝生を気にしていったい自分はどうする?
それを獲得してこれからの人生において、いつ、どこでそれを活用できようか。
いらないんじゃない。そんな使えねーものは。たぶん、どこでも必要のないゴミだろ。
自分にとってゴミにならない必要なことだけ、獲得すればいいんじゃねーか?
他人を受け入れ、自分も受け入れ、本当に「自分がいいと思ったもの」「自分はコレが好きなんだ」と堂々と表明できることのみがほしんんじゃないのか。
もっと素直に、本物の目的を改めて再確認し、それを達成させる責任をもち、浮気したりしないで、心の中にだけ「努力の炎」を燃焼させることが大切なのだ。
自分の行動に責任をもつことができれば、必ず、その「いいとこどり行動」が結果的に理想とする目的に少しづつ辿りつけるはずです。
最後に、努力をすることはいいことです。だけど、努力家になることはない。努力専門家でいても、それは目的を見失いかねない。
努力家でいるくらいなら、情熱家になろう。
「努力する」は、がんばることにフォーカスするが、「情熱をもつ」は、自分の好きにフォーカスする。
自分は、情熱家だ。「比較しようのない」自分だけの情熱を抱くんだ。ってね。
努力の判定は「強み」と「弱み」で決める
先が読めない時代になった。
これほどまでに、社会が変化していると、この先どうなるかなんて考えても仕方ないくらいです。
すこし前までは、先が読めた時代もあったかもしれないが、もはやそれも今となっては「幻想」だったのかもしれません。今の時代背景を見る限りでは。
しかし、先が読めない時代において、未来は不確定であり、何が起きるかわからりません。
それはつまり、「無限の可能性がある時代」ということです。
その「可能性」という言葉こそが、「夢」の実体であるはずだ。
あなたも、私も、動物や自然も、すべてにおいて「可能性(夢)」を秘めた未来。
そして、「今」という劇場の中で、自分自身の可能性を発見するには、まずは、「自分自身の強みと弱み」を知ることです。
今日までのあなたは、先が読めないために、何となく流されていた、自分の人生は他の誰かが「決めてくれる」という幻想を見ていたかもしれない。
今ここからはそうじゃない。
自分の本質とは、努力しなくても自然にできる「強み」、努力しても上手くいかないことは「弱み」と考えても、あながち間違いではないはずだ。
自分の人生の主役は自分であり、自分の強みと弱みの主体だということ。
他人との比較で思い込んでしまう「自分」という幻想を捨て、真の自分である己を知り、強みを活かす。
そんな、情熱をもった「努力をし続ける人」になろう。
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