読ませるコピーって何かこう、想像させられちゃうんです

読ませるコピーって何かこう、想像させられちゃうんです

ひゅるひゅる~ドォオ──ン

・・・バチバチバチ~

花火。だったりする。

まさかの「花火の音」だけを言葉で表現してみた。

言葉ってのは、それ単体では読み手に正確には伝わりにくいもの。

「ミスター」で知られる野球界の大スター・長嶋茂雄さんが選手たちに打ち方をおしえるときに「スッと」「キューッと」「パーン」って擬声表現された事は良く知られている事だけど、これだけを聞くと、なんか女性の体型の事を言っているようにも受け取れそう。

擬声語、擬音語、擬態語などの「オノマトペ」を言語化しようとすると「文脈」で記さないとすべてを理解してもらうにはムリがある。

一方、花火の音を「音声」だけで聞くと、「あ、花火の音やね」って大半の人は気づくし、さらにその情景も浮かんできそうです。

さらに、画像や動画となると、その伝わり方はまた別の想像を掻き立てられます。

セールスコピーって何のためにある?

っていわれると、大抵は「商品を売るため」「買いたいって思ってもらうため」とか。

うんうん、確かにそうだ。そうかもしれない。

でも、実際は、セールスコピーでモノを買うと決める人ってそんなにいるかなぁ?

商品って、「モノ」でしょ?「モノ」ってのは物体であって、ちゃんと形とか色を見たり触ったり頬ずりしたりとかできたりするものです。

その物体の視覚情報なしで「これであなたの悩みを一撃で解決します」って言葉で置き換えて伝えてもやっぱり納得してもらえないんですよ。

つまり、何が言いたいのかというと、セールスコピーでモノが売れた時代はとうに過ぎてしまった。

正しくは、セールスコピーでどーにかこーにかして買ってもらおうとライティングしても「空振りしちゃうぜ」ってこと。

長嶋さんに言って頂くと、「スッと」「キューッと」「スカッ・・」って(おそらく)言いくるめられちゃうってこと。

現代(2019年現在)は「品質もいい、コストも安い」モノ、モノ、「モノ」で溢れているから、モノが売れないって経済界やメディアのお偉いさん方達はそういうじゃないですか。

だから、商品の特徴や、ささるベネフィット、ターゲットに見合った「響くコピー」をツバが飛び散るほど熱く語ったとしても、結局消費者は「ま、使ってみないとわからないけどね~。」という完璧なモノなんてありゃしないぜって聡明に判断したりします。

これ、事実だと思うのですが、あなたはどう思いますか?

コピーを書くのはどうして?何が目的?

じゃぁ、これからのセールスコピーって何のために書くのってはなし。

願わくば、先ほどの花火の動画みたいに伝えたいのですが、言葉だけのコピーでは到底太刀打ちできそうにない。

じゃぁ、こうすればいいんじゃない?というのが、今回の「セールスコピーって何のために書くねん」っていう一つの結論を紐解いてみた。

先に結論っぽいことをいっちゃいますね。あとで「白けられる」のもなんだし。

商品を「買いたいっ」て思ってもらうのではなく、買うという行動の何歩か手前に焦点をあてて、その商品を、どう「思って」もらうかを目的とするのがいい。と思うのである。

そもそも、広告っていかにも「広告です」って顔していると大半の人は、ウザいとしか思ってもらえない。

特にスマホとでいう狭い画面上に映し出される広告は、横から下から「スイーッ」って入ってた時に、いかに「×」ボタンにタップを命中させ、「広告先にはアクセスしないぞ」って素早く上手に削除できるかどうかの哀れな存在になっているかもしれません。

だけど、そんな白眼視されがちな広告も、何かを「思って」もらえる事もある。よくある、実際よくあり、そんな広告のコピーは読まれるのだ。

その「思って」もらえる正体はというと、「気づいていなかったけど、言われてみればそうかも」という、隠れた欲求を、“ 想像させられてしまう ” ものなのだ。

買いたい(ウォンツ)って思う、その一歩手前にある、隠れた欲求(ニーズ)にフォーカスし、そこにコミットさせるコピーライティングこそが、「読まれる」のかもしれません。

フツーの立ち位置で書くコピーは読んでもらえそうだ

コピーを書くってのは、商品のウンチクやコンセプト、実績や有名人の証言などを、あーだこーだと事細かにいったりもします。商売上手な方はそこが「ウマい」のかもしれない。

でも、いかにも「商売上手な人」感がでてしまうのも、どーかと思う。

モノがなかった戦後、次から次へと世に出る新製品は、誰もが初体験で未知なる物体。

「なにこれ?なんかすごいねぇ~」とか、何をどうしていいかすらわからない、掃除機も、アイロンも、炊飯器も、初めて世に出たその当初は。

だから、「この新製品は、こういうものでこんなことがでるのです」って鶴の一声をかけるだけで、みんなが、「なるほど~」「それほしいね~買おう!」って簡単に(あっさりと)納得してくれだんでしょう。

でも、今はちがう。今は、「この製品は、こういうものです」っていっても、そんなことはすでにわかっています。情報化社会の渦中にいる消費者さんは。

だからといって、「この製品は、あの製品とではココが違う」といってもなかなか響かない。それ以前にすでに比較されいる。そして大手にもってかれるのがオチ。

それよりも、「隣の山田さん、あの新製品買ったらしいよ。」「へ~。なんて言ってた?よさ気なの?」

「何か思ってたより音がウルサイっていってた。」「そうなん?じゃぁ家は赤ちゃんいるからちょっとムリかもね」

みたいな、普通の一般の方の意見のほうが、案外信憑性がもてたりもする。

要は、今の時代のコピーって、「売るコピー」よりも、「ぶっちゃけコピー」。そんなレビューの意見が信頼されるのは、そこにはやはりSNSが起因となっているのだろう。

コピーに限らず、画像や動画のフツーの人のリアルな意見。あの人の「なんちゃら映え」がステキ、この人の「ほにゃららコメ」に賛同した。とか、よくわからんけど。

要は、昔は「ズバッ」と言い切るマーケターさんのコピーに説得力があった。でも今は、あーでもないし、こーでもない。これいーんだけど正直どうなん?みたいな生々しい率直な意見がまかり通ったりもするのだ。

かといって、フツーの人のレビューや意見がそのままセールスコピーとして変わるわけではありません。なぜなら、広告は費用が発生する。だから、SNSにアップするような「なんちゃら映え」とかを、本気で演出しないといけないのだ。

だからこそ、「我こそは広告なり、セールスコピーなのだ」という特別感を醸し出すのではなく、一見広告で、一見フツーの意見。セールスコピーでありながらも、「こんなのどう?」っていう、「買いませんか」といいきる一歩手前の、気づいていないとこに焦点をあてることがカギとなる。

つまり、「お、飲んでみようかな、と思わせるコピー」「どれどれ、検索してみるか、となるコピー」「ちょっと見に行ってみようかな、と思わせるコピー」「ちょっと気になるなぁ、と記憶されるコピー」など、読み手が買うという行動の何歩か手前にフォーカスするコピーこそが役目であり、そう「思って」もらえることでそのコピーは「成功した」といるのだろう。

いちばん消費者に一番近くにいる立ち位置でいる「意見が上手な人」。そんな人のコピーは読まれたりするんだと思う。

コピーを上手に書く人、糸井さん

コピーを上手に書く人の特徴をズバリいってしまうと、「想像力のある人」だと思うのです。

どうしてそう思うのかというと、ジャパニーズコピーライター、「ほぼ日刊イトイ新聞」の運営者として有名な糸井重里さんの書くコピーに学びがある。

例え話しや比喩表現が上手な人の代表格ともいえるのが、糸井さんのコピー。

とにかく、例え話しのおおいこと、おおいこと。そんでもっていちいち絶妙なんですよ。

なにが「絶妙」かっていうと、そのまま読んでいるのではなくて、とにかく頭の中で「何かを想像させられちゃうん」ですよね。ついつい何かを。

糸井さんのコピーだから、リスペクトしてそう読んでしまうのかもしれないけど、「想像力のある人」なのは確かだといえる。

糸井さんくらいのコピーレベルになると、「想像力がある人」というよりかは、読み手の「想像力を呼び起こす人」。

自分の想像が相手の想像に伝わる。もうここまでくると、「何ちゃら映え」はいらないよね。すごいよ糸井さん。

コピーが上手に書けない人、こまったさん

思うに、糸井さんみたいな「想像力のある人」は、普段から人の気持ちを察する想像が日課になっているのではないだろうか。

それはつまり、普段から、自分の行動や発言が、他人がどう感じているかとか、ちょっとした気遣いをしようと心懸けている。

コピーを文章力だけで書こうとしても、普段の自分の行動が、他人にどう影響しているかに気付けないひとは、いってしまえば「コピーライターに向いていない人」。じゃない?

例えば、混んだ電車の中でリュックを背中に背負ったままの人、とか。

大声で馬鹿笑いしながらうるさそうにしている人、とか。

薄暗い夕方にライトをつけないで車を走行している人、とか。

スーパーのレジが混んでいて、別のレジが開いた時、「2番目にお待ちの方どうぞ」って店員さんが言っているのに、2番目じゃない人が先に入っちゃう、そんな無神経な人、とか。

なんかこう、本人は悪気ないんでしょうが、他人からすると、「おいおい」って思っている。そんでもって、注意すべきかどうかといわれると、そうでもない感じがして、結局「一言いいたいけど、迷惑をかけてる事に気付かない人はどうしようもない」の結論に至ってしまう。

いますよね、そういうちょっと残念な人、こういう人はたぶん、コピーライターとは程遠い人なのかもしれません。

こういう人、こういう人って、なんか酷い人格者みたいに決めつけたりしてるわけじゃないんです。「関西人だからおもしろいこというよねっ」とか、「九州男児だから亭主関白強いよねっ」て決めつけをしている事ではありません。

でもやっぱり、他人に対する「心遣い」ってコピーで伝えようとすることにもつながってくるんじゃないかと思う。

別にそんな人がコピーを書くとは限らないけど、職場とか、付き合いとか、他の別のところで出るじゃない?そういうクセって。

だからこそ、ちょっとした気遣いを意識して、自分の想像力を豊かにし、それが他人に伝わると、うれしいし、打ち上げ花火もただキレイと思うだけでなく、自分に対して「お空が祝福してくれた」って勝手な想像ができたりするんだと思う。

車で追い越しされたときも、ついカッとなって「オラァー!」って思わないで、「きっと家族の人が危篤状態で急いで病院に向かっているんだろう」とか思える。だって救急車やパトカーに追いこされても 「オラァー!」 ってならないじゃないですか。

随分と話がぶっ飛んでしまいましたが、普段から、気遣い意識した想像力を磨き、売ろうぜ、買ってもらおうぜって売り手目線だけのコピーに捉われずに、極々一般の方の日常に添った、フツーの消費者目線で書くことが大切だったりする。

これまでの「先入観」や「思い込み」をここらで一掃してみるのもいいかも。

今の時代、モノを買うキッカケに、口コミサイトを伝に買うか買わないかを決める人が多くなったとされています。

「買いたい」と思う、その一歩手前にどういった情報が得られるか。その「隠れたニーズ」にこそ、広告コピーが「映える」のではないだろうか。

言葉は映像や画像のような表現はできませんが、言葉だからこそ、伝わることもある。

言葉から、その人の頭の中の映像が映し出されることも事実。

ひゅるひゅる~ドォオーン

・・・バチバチバチ~

ほら、もうすぐ夜空に大きな花火が上がるよ。

青、赤、黄、白、色んな色の花火は、みんなの顔色を青くしたり、赤くしたり、いろんな顔色に染めたりします。いろんな悩み事やうれしいことも、どんな顔色しても、お空は大きな「祝福の花」で歓迎してくれる。

みんなでお礼をいおうよ。「ありがとう」って。「明日からまた、がんばるよ」って。真っ赤に照らされたその顔色のままで。

コピーってのは、その瞬間を、最大限に感じてもらう、いい時間を過ごしてもらう、そのメインの一歩手前をサイコーの状態で想像してもらう。

コピーって何のためにある?

僕たち私たちのコピー。たまには「コピーの立場」で考えてみるのも悪くない。

想像するってこういうことですか?・・糸井さん。