「読まれる文章」ってどんな文章なの?

「読まれる文章」ってどんな文章なの?

“ いい文章 ”すなわち、“ 上手な文章 ” を意識すれば、読まれる文章が書ける。

質の高い内容、おもしろく、気づきがあり、尚且つ流れるような表現を奏でる文脈こそが読まれるのだ。

いい文章を書きなさい。読み手にササる内容を書きなさい。感動を伝えなさい。

このことを意識するだけで、あなたの文章は、瞬く間にバズったりもするのです。なんでやねん。

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いい文章を書こうとすると、かえってつまらなくなったりしませんか?

良質の文を書くのは、文章ではなく、「文書」。職場の報告書とか稟議書だけでいいでしょ?

「読まれる文章」ってどんな文章?

ある文章が「読まれる」かどうかをはかるものさしがあるとすれば、それはどんなものさしなのでしょうか。 これがはっきりしない限り、「読まれる文章を書こう!」と指南するのは不可能だ。

ホントに質の高いおもしろみのある内容だけが「読まれる」のか?「読みたい」のか?

それとも、「読ませられている」のか?

現に、バズってる投稿やコメントなりは、何も「上手な文章」とは限らないようにも思えるが、どうでしょう。(ちなみに、批判的なコメントや中傷的なものはバズるではなく、炎上だからね。)

バズってるから読まれているということもあるだろうが、読まれる文章にある共通点的なものはあるのだろうか。

さぁ、今回はやっかいなテーマを掲げてしまったようです。

ところで「バズる」って何ですか?

というわけで、ちゃんと調べてみました。

すぐに知りたいから検索エンジンでトップに表示してある「Weblio辞書」をすかさずクリックしてみた。

すると、こういう説明書きが記されていたわけです。

「インターネット上で口コミなどを通じて一躍話題となるさま、各種メディアや一般消費者の話題を席巻するさまを指す語である。 」

そういうことである。

ってわかんねーよ。だから辞書検索って効率悪いんだよなぁ。「バズるって何?」「具体的に何?」そこを教えてくれるのが辞書の役目だと思って、敬意を表してクリックするのだが、どうも辞書ってのは全力で「抽象化」された説明に至る。

「口コミなど」「各種メディア」「席巻するさま」とか・・・。おいおい、「席巻」ってなに??

これからの「辞書」は、調べた人にやさしい「言葉の相談相手」としての在り方でいてほしいと願ってやまないのである。

じゃないと、物理的な辞書は、グーグルロボットにその存在価値をもってかれちゃうよ。AI(人工知能)が人類の知能を超えるかもしれない分岐点(これを、 シンギュラリティという)に脅威を抱いているかのように。

ちなみに「席巻」とは、圧倒的な強さ獲得したり人気を得ることを発揮した人などをいいます。ちなみに読み方は「せっけん」。ちなみに、「席捲」と表すこともできます。

ちなみに、「ちなみに」とは、ついでに言うと、とかいう意味です。

そして、ちなみに「バズるって何?」をもう少しわかりやすく解説してみるとこうなる。

ネット上でツイッターとか、ブログとか話題になることで、どちらかというと肯定的な事が話題になる事。

結局は抽象的だよ。「Weblio辞書」さん、ゴメン。

さて、「バズる」の意味がわかったところで、「バズる文章」について紐解いてみましょう。

初めに断っておきますが、「バズる文章の書き方」を具体的に説明するわけではありません。

バズる文章とは、何となくこういうものじゃないかな~って思った事を紐解いてみましょう。というモノです。

結局、抽象的だよ。「Weblio辞書」さん、やっぱりゴメン。

「読みたい文章」は何か?

読まれる文章は、読んでためになるとか、おもしろいとか、「読み物」として楽しめることが醍醐味ではないでしょうか?

その内容は人ぞれぞれなので、何が読まれる文章なのか?について具体的に問を立てることはまず無理。

ならば、ターゲットを絞るとか、ペルソナを設定して「読んでもらえる人を狙い撃ちにする」という昔ながらのライティング手法を屈指すればいいのでしょうか?

多様化した現在、もっともっと多様化されつつある未来で、「読者を絞る」なんてことは、もうイマドキ古すぎます。

ちょっと前までは、「とにかくターゲットを絞ろう!」「人物像を設定して書こう!」と謳っていましたが、今それをやるのは大企業とか、ポータルサイトなど圧倒的に集客しているサイトでこそ有効。

個人経営のサイトとか、個人ブログ、小規模サイトでユーザーを絞ってしまうのは、「わざわざアクセスユーザーを減らすハメ」になってしまいます。

要は、ユーザーを絞るのは、「集客ありき」。集客に苦戦しているサイトが初めからゆーざーを絞ってしまうのは実にナンセンス。というのがここ最近分かってきたとされています。

それに、サイト側がターゲットを絞ろうが、ペルソナを設定しようが、実は訪問してくるユーザーは、狙い通りの人物像とは限らないわけです。

コスメにハマるガテン系のおじさんだっている、かわしいワンピースが着たいと思ってるそこのおっちゃん、そうでしょう?

多様化する消費者ニーズ、多様化しつつある価値感。誰だから○○という限定性がなくなってきた理由は、ズバリ、情報化社会の変遷。

例えば、かつては、男性は狩猟本能として狩りをして獲物を捕まえるという本能があり、女性はその帰りを待って自分たちの家を守るという本能があった。

その、定め的なことを「伝える」ことでしか情報を得る事ができなかったからだ。

だが、溢れるほどの情報が飛び込んでくるイマドキ、「伝える情報」よりも、「見つけた情報量」が多くなり、やがて世界は繋がり、日本だから、男性だから、10代だから、50代だからといった識別はせず、誰もが「人間」という一括りでの価値感で考えるようになったのではないだろうか。

読み手を絞り込み、ターゲット層に即した文章を書く練習をしたいのなら、ペルソナを設定するよりも、『LINE』で練習するほうがよっぽどいい。

要は何が言いたいのかと申しますと、ターゲットを絞るというのは、「読まれる文章」ではなく、「読ませる文章」になってしまいますよ、ってこと。

さてさて、そうなると、「読まれる文章」という概念を捉えることがさらに難しくなります。

いまさらながら、紐解こうとしている自分を、自身で追い込んでしまったようだ。

なので、しかたがないので、読まれる文章ではなく、自分が読みたい文章とは何かを考えてみる事にした。

事象と心象

私的な事になるのですが、私の場合はどちらかというと、「事象」の文章よりも、「心象」の文章を好んで読んでいることに気が付いたのです。

例えば、見たいと思った映画のストーリーの要約ではなく、その感想やネタバレ、映画評論とか。

ライブ動画のコメントとか、アニメや漫画の「その後どうなった」とか、「メディアから姿を消したあの芸能人の今」とか。

「読まれる」、じゃない?なんだか「読んでみたい」でしょう?結構こういうスピンオフ的なものって。

「今日未明、○○が殺害されました」という事象ではなく、「○○が殺害された事件の真相とは!」という心象などがそう。

事象とはすなわち、見聞きしたことや、知ったこと。世の中のあらゆるモノ、コト、ヒトは「事象」です。それに触れて心が動き、書きたくなる気持ちが生まれる、それが「心象」である。

そしてその事象と心象の2つがそろったものが「随筆」。人間は、事象を見聞きして、それに対して思ったこと考えたことを書きたいし、また読みたい。そしてネット上で読まれる文章のほとんどはこの「随筆」だったりはしないだろうか。

もちろん、文章は随筆だけではありません。「事象を記した文章」も「心象を記した文章」もあるわけです。

事象を中心に記述されたもの、それは「報道」と呼ばれるもので、「○○の犠牲者が出た」という報道はあっても、「○○の犠牲者が出た。これは非常に許せない行為であり、涙が出る」という文章は、すでに報道ではない。書き手の心象が述べられたもので、それは「創作」や「フィクション」。すなわち、小説や詩がそれに相当する。

読解力が低く感受性に欠ける私はあまり小説や詩を好んで読んだりはしないが、きっと、読み手の心にささる素晴らしい作品であることは確かだろう。

つまり、事象を記した内容よりも、その事象に対する書き手の感想や思い、意見などの「心象」を記した内容の文章こそが、ここでいう「読まれる文章」ではないかに至るわけです。

「悪文」すなわちそれは○○が足りてないから

「心象」を記した内容の文章は、すべてが良い意見や感想とは限らず、つまらなかった感想や、批判的な意見の内容もある。ですが、誹謗中傷するような文章になってしまうとそれは、「悪文」。

心象を記した内容の文章は読まれるが、悪文は悪文に終わる。悪文は読まれはするが、その書き手の文章は二度と読もうとはしません。

ありますよね。この著者の文章はちょっとうけつけられない。というのが。それはたぶん、文章に「敬意」が足りていないのでしょう。発信する文章にしろ、投稿にしろ、最低限の「敬意」がないと、たちまち「悪文」と化す。

残念なことに、そういった心象を記した文章を度々目の当りするのだが、至ってそれは、「文脈」つまり事象そのもののファクト情報が薄っぺらい事に気付くのです。

書き手の思いを綴るということは、事象に対する情報収集の努力で決まるもの。ネット上に飛び交うコトバだけを鵜呑みにし、反射的に意見だけを述べている文章が「読まれる文章」になるはずはないのだ。

とはいっても、良いことだけを書こうとするのがいいというわけではない。いいことを記そうとすると、ただ思いを綴っただけの「心象」が少なからずブレてくるし、伝わりにくくなってしまいます。

例えば、「日々の行動を振り替えること、先人の教えをこの書籍から学んだ」という文章よりも、「私はこの本を読んで教わった。毎日のささいな習慣から見直さないといけないことを。」というように。

前者の文言はなんとなく事象っぽいが、後者の文言は心象っぽい、なんとなく。

ほらね、だから「押しつけがましい」文章しか書けないんだよ。私は・・・。

とりあえず結論。

ということで、正解のない結論でしめくくらせていただきます。

「読まれる文章」とはすなわち、「書き手の思いを綴った敬意ある心象を記した文章」で、“ いい文章 ”を書こうとしないこと。このことを意識するだけで、「読まれる文章が書ける」。

というのが、私の「読みたい文章」でした。

全力で抽象的だよ。「Weblio辞書」さん、ゴメン・・・なさい。

あんたは最高の「言葉の相談相手」だったよ。

「自分が素直に感じた部分を、全力で伝える」という気持ちで書く必要があるのだ。素直に感じたポイントさえ見つけられれば、お題は映画でもなんでも良く、それをそのまま伝えれば必ず読まれる文章になったりもする。はず。

素直に感じた部分が「つまらに」「わからない」「おもしろくない」のであるなら、どこがどうつまらなかったか、なにがわからなかったか、なぜおもしろくなかったかを書くしかない。心象を記すとはそういうことなのだ。

「つまらない」「わからない」ことも感動のひとつで、深掘りしていくと見えてくる世界があり、正しい意味で文章を「批評」として機能させることができるはず。

いい文章を書こうとしなくてもいい。だから、読まれるんだよ。

読ませなくていいんだよ。読まれそうになくてもいいんだよ。

それでもどこかの誰かに「読まれる」から。そうだろう?