「やさしさ」の表現は、みんなちがって、みんないい。

「やさしさ」の表現は、みんなちがって、みんないい。

子供が
子雀
つかまえた。

その子の
かあさん
笑つてた。

雀の
かあさん
それみてた。

お屋根で
鳴かずに
それ見てた。

この詩は、昭和時代初期にかけ活躍した日本の童謡詩人「金子みすず」氏の『雀のかあさん』という名作。

僕たちが見ているモノやコトは、別の人の視線で見るモノやコトでは、ちがって見えるということ。

違って見えるだけじゃなく、見てどう感じ、どう捉えるかも当然違ったりするものです。

自分達が幸せだと思っていることも、別の視線から見てみると、手に届かないスクリーンに映し出された動画や画像にしか見えない人もいる。

人間の微笑ましい母子関係が、雀の母子関係の存在に気づかないのは、互いに共感し合う事ができないからといってしまえばそれまでです。

ですが、この詩では「雀親子の弱い立ち場」が描かれているが、実際は人間世界にも雀親子のような「気づかれにくい弱い立場にいる人達」はいるのです。

ほほえましい、心が和む、ほんわかするとか、それ「いいね」とか、僕たちが見ている「ほほえましい」と思える事は幸せなこと。

ですが、一見その「ほほえましい」幸せな事も、一歩下がり、さらに一歩下がって見てみると、とても、「ほほえましくは見えない」なんてこともあったりする。

見えない真実がそこにある

この「雀のかあさん」という詩は、目先のほほえましい情景も、広く俯瞰してみる事で、「見えない真実がそこにある」ということに気づきにく。ということを切実に語っているように思うが、あなたはどう感じたでしょうか?

子供の母親には「ほほえましい」と感じるも、母雀してみれば、捕まえられた子雀の事が「心配でならない」のだろう。

さらに、一歩下がって、第三者の視線で見ると、母雀の「心配そうにしている様子」と、それに気づかない子供と母親の「ほほえましい様子」の全体を俯瞰した時、なんだか切ない思いが募ってきます。

この第三者というのが、金子みすず氏本人です。すべてを傍観していた。金子みすず氏は、人間親子と雀親子の心の描写をすべてみていた。

金子みすず氏本人に直接聞いたわけではないが、おそらく、捕らえられた子雀に対しどうすることもできずただ見ることしかできない母雀の弱いモノの立場に立った哀切な気持ちに、なすすべもなく、もどかしい気持ちでいるしかなかったのではないでしょうか。

そして、さらに一歩下がり、僕たちはこの詩を読んでいます。

幸せな人間の親子と哀れな雀の親子の重層的な関係を描いた本人、それを傍観していた金子みすず氏がどういう思いで綴ったのか。

広く遠目で俯瞰してみると、そこにはまた違った見方をすることに気付くのです。

人間親子のほほえましさ、雀親子の哀切さ、切ない気持ちの金子みすずの全てを俯瞰し、この詩を読んでいる僕たちはようやく、「見えない真実がそこにある」ことに気付くことができるのだ。

僕たちがいつも見ている視線に映し出されるモノやコトは、別の人の視線で見るモノやコトでは、全く異なるということ。

僕たちの当たり前のような日常的な事も、別の誰かにとっては、手に届かない、夢のようなことだったりする。

しかし、他人の心中など、正確にわかるはずがない。わかったつもりでいても、そこには「雀のかあさん」のように必ずズレがあったりする。

性格も生い立ちも、育ってきた環境も違う人間が、真実身のある具体的状況も知るわけでもないのに、理解できるわけがない。

それでも何とか励ましたい、寄り添いたいと思うとき、押しつけがましくならずに、「さりげなく」気遣いを伝える。

それこそがほんとうの「やさしさ」の表現であり、日本人ならではの間柄文化なのかもしれません。

視線で異なる「やさしい人」

人の気持ちを傷つけない人が「やさしい」といわれています。

傷つけられるのはだれだって嫌。傷つくようなきついことを平気で言う人にはつい身構えてしまうし、そのような人は敬遠したくなるのはわかります。

一方で、人の気持ちを傷つけないように配慮してくれる人だと、こちらも安心してかかわれる。

ですが、厳しい中にもやさしさあり、といわれるように、厳しくするでもやさしいことだったりします。

後に説明しますが、「やさしさ」とは、時には甘く、時には厳しかったりするもので、何が「やさしさ」のかは一言では言い表せないもの。

だた、あからさまに他人を傷つけるような言動や行為を「やさしさ」の部類に入ったりはしません。

それは、やさしさではなく、下劣(げれつ)。他人に対して節度のわきまえがない下品な品性下劣というのである。

では、他人を怒るとか叱る、厳しく当たることはどうか?

言い方によっては下劣に怒れれた、とも見えるが、厳しいなかにも優しさがあると言われるように、怒ったり叱ったりするのは、その人のためになるという、「やさしさ」が含まれている。

むずかしいところです。やさしさの部類になるか下劣な部類になるのか。叱った本人は「やさしさ」のつもりでも、叱られた人からしてみれば、深く傷つき、下劣な行為をされたと思われることもあるのだ。

ですが、今の時代、先ほども言いましたが、人の気持ちを傷つけてはまずい、傷つけてしまっては終わり、だから怒ってはいけない、叱らずにまずは、ほめる。

ほめるとことで、やる気を起こさせることが必要。だという。

ほめることの一点張り、怒るや叱る行為は、下劣な行為になりかねないから、配慮のいき届いた言動や行為を心がけよう。

それが今の「やさしさ」であるという。極端なようですが、そう言う傾向は少なからずあるとは思いません?

でも、そのような配慮の行き届いたやさしい人とのかかわりに、どこか物足りなさを感じることってありませんか?

傷つけない「やさしさ」で傷つきたくない?

傷つくようなことを言ってこないという安心感はあるのだが、そのやさしい人を、第三者の視点に立った時、「そこはビシッといえばいいのに。」「なんかやさしすぎるんだよなー、もうちょっと厳しくしないとねー」とか、傷つけないように配慮してくれる「やさしい人」が、別の視線からみると、とたんに「甘いだけ」の人として映し出されてしまうのである。

今の若い人たちの多くは、子どもの頃から、ほめて育てられてきた、叱られたことがほとんどなかったという人もいるようです。

例えば、典型的な例をあげるとすれば、会社の上司が部下に対して指導するとき、「怒ったりしないでやさしく指導する」ことを心がけている人が多いようです。

「僕たちは、ほめられて育った世代だから、ほめてもらえないとへこむし、やる気になれません」「私たちは、ほめて育てられたから、ほめられて伸びるタイプだし、叱られるのは苦手です」などと、自ら世代代表の言葉同然で言ったりするらしい。

それがよくないとは言えません、なにせその一世代上の人は、「俺たちは怒られ厳しくされながらここまできた。怒られることでいろんなことを乗りこえてきたんだ」といったりする。

真逆の意見ではあるが、お互いその時代ならではの指導の在り方に添って育ってきたわけで、今の若者の考えがおかしいなどとは言えないでしょう。

そんな「ほめられる」若者ゆえに、厳しい扱いには非常に弱い。厳しく注意されたりすると、傷ついたり、落ち込んだりしやすく、まずい点を指摘されても、そこを反省して直そうという気持ちはあれど、厳しく当たられた不快感の方が強く、そこに反発する気持ちの勝る傾向にある。

反発するだけならまだしも、怒られた傷心に耐えきれず、「逃走」してしまう人も意外とおおいらしい。最悪、逆キレしたり、「パワハラだ、訴えてやる」などトラブルをおこしかねないことさえある。

そんなことから、まずは、ほめるべき点を極力ほめてから、直した方がよい点を「ここはまずい」というのではなく「こうしたらもっとよくなる」という感じに、やさしい感じで伝えるようにというのである。

まずいところの修正を指導する際には「これはまずいから直すように」と言うと傷つくので、「こうするとさらによくなると思うので、修正をよろしくお願いします」というように、やさしい感じにお願いするのだとされる。

かつてのやさしさとは、その時は厳しくしても、後々にそれは優しさだったと気づくものだとされていた。いわば、「治療的なやさしさ」。

一方、今求められているやさしさは、絶対に傷つけてはならない、傷つけることを回避するしなくてはいけない。という「予防的なやさしさ」へと変化した。

予防的なやさしさは、上司の指導や、親の教育のみならず、友人同士や親族関係の間柄でも目の当たりにすることがよくあります。

例えば、SNSの投稿や、ブログなどで発信する言葉づかいは、なぜか「語尾をぼかしてしまう」傾向がある。

「……かも」「なんかちょっと……ぽい」「……かな、みたいな」など、言葉の語尾をぼかした言い方をする事が多い。

これは、自分の意見で他人を傷つけてはいけない、「予防的なやさしさ」の表れではないだろうか?

予防的なやさしさは、自分を予防することであるからして、相手にほめることをしないと、自分自身が嫌われてしまう。だから予防が必要。嫌われない予防のやさしさをしないといけない。という思いが見え隠れしてくる。

ほめて育てられたから、ほめられて伸びるタイプだという、この若者たちが将来どうなるかはわかりません。

ただ、ほめられ育てられた経験が将来どう影響するか、はたまた、厳しくされなかったことが将来どう影響してくるかによって、今の若者の次の世代に対する指導になるんだと思います。

その時代の価値観は、その時代を経験した人たちの価値観によって異なるもので指導方針も大きく変遷するのは、いか仕方がないのかもしれません。

ですが、価値観が異なることはあっても、それは大抵「手段」が異なるだけに過ぎない。

「やさしい人」が、ほめまくる人なのか、叱りつける人なのか、手段はちがっても、やさしくする本質的な目的は、時代を超えたブレないものがある。

僕たちは、「雀のかあさん」という詩を読み、「見えない真実がそこにある」ことに気づけたように、「やさしさ」の真実もまた、一歩、さらに一歩下がって、本質を見つけなくてはいけないのかもしれない。

「やさしい」と「甘いだけ」の違いってなに?

「やさしさ」と「甘いだけ」はどう違うのか、何がやさしい行為なのか、どの程度が甘いだけの行為なのか。

それは「やさしさ」だ。だけど、それは「甘いだけ」なのではないか?

親や、上司、先生といった、指導に従事される方や、はたまた、身内や親族、友人に対してでも、「やさしさ」と「甘いだけ」の違いが分からず、どう接していいのかが分からずに悩んでしまう事がある。

ですが、やさしさと、甘いとでは、本来比べる事ができないと思うがどうでしょう?

というのも、「やさしさ」の中には、厳しさもあり、甘いだけのこともある。何も言わない無言のやさしさも時にはあったりするもの。

なので、「甘いだけ」というのは、「やさしさ」の一種であり、並べて比べるものではないはず。

「やさしい人」とはいっても、厳しくされることが、やさしい人だと思う人もいれば、叱ったり怒ったりしない、ほめてくれる人を、やさしい人だと思う人もいます。

甘いだけとか、厳しすぎるとか、やさしさの表現は、その場の状況に応じて変化させるもので、単純に、ほめるのがいい、厳しくするのがいい、そういった偏ったものではないはずです。

そして、それをどう受け止め、どう捉えるかはその人が感じる「その時だけの」感情にすぎないということ。

そのとき、すごく優しくされたと感じても、将来的には「あのやさしさは、嫌われたくないからやさしくしていただけだった」と気づく事もある。

一方で、そのときは、すごく厳しくされた、怒られたと感じても、将来的には「あの時厳しくされたから、今の辛さにも耐えられるんだ。そう考えてみると、ほんとはやさしさだったんだな」とあらためて気づいたりするのです。

つまり、「やさしさ」というものは、「後から気づく」ことが多い。そのときは大いに傷つき、大いに不満でも、後々ありがたいと思えてくるもののことが多かったりする。

怒るのがいいのか、ほめるべきなのかは、その場しのぎの手段に過ぎなくて、無理に相手の反応を、極端に気にしすぎる事はないと思うが。

相手の反応を気にするということは、「こういえば傷つかないですむかなぁ?」とか、「かえって怒らせたりしないだろうか?」「逆にかなしませてしまったりしないだろうか?」など、いかにも相手の気持ちを思いやっているように思えるが、第三者から俯瞰してみると、「嫌われたくない」という思いから、やさしげな表現をしているだけようにも見えたりする。

相手が傷ついてしまう事を気にするのは、傷つけてしまう自分がイヤだから、傷つけてしまった自分が嫌われてしまうのがイヤだから。

やさしさは、時に甘く、時に厳しく、時に無言の表現で、以心伝心伝わる表現もあったりする。かんがえすぎてはいけない。変に相手の反応を気遣いしすぎる方が、その相手にとっては、違和感を感じる事さえあったりする。

あなたも経験があるはずです。妙に気づかいされて複雑な思いになってしまった経験があるはずです。

本当のやさしさは「会う」こと

さて、他人に対するやさしさとは何か?

時代を超えた、ぶれないやさしさの目的とは何なのか?

それは、互いの「つながり」をそれぞえが感じとり、時にはほめたりもしたり、時には厳しく当たったりもしたりして、日本人ならではの、親しい間柄の関係を築くことではないだろうか。

親しい間柄を築くには、やさしい人であることはそれほど影響度はありません。

どれだけやさしい人もで、遠くに離れていたり、会うことが滅多にないとなると、その親しい間柄の関係は、次第に薄れてしまします。

つまり、他人との「つながり」で最も大切なのは、少しでも多く「会う」ことであり、接触頻度を多くする事が大切だったりする。

100人に1回だけ会うよりも、10人に10回会うほうが、よりつながりを深める事ができる。

「遠くの親戚より近くの他人」ということわざがありますが、いざというときに頼りになるのは、遠く離れて暮らす親類ではなくて、近所に住んでいる他人のほうだという意味。

つまり、「やさしさ」とは、何度も会う直ぐ近くにいる人と、ほめたり、怒ったり、叱ったり、時には傷つくようなことを言ってしまっりなど、さまざまなやりとりでの中でしか、「やさしさ」は伝わらないということではないだろうか。

そうすることで、本質的な親しい間柄の関係を築き、将来的に、ほめられことでここまで自信を持ってやってこれた、叱られたことで、今の苦難を乗り越える事ができたとか、後々になって気づくことができるのだと思う。

なので、やさしさを伝えたいのであれば、まずは、「会う」機会をできるだけ多くすることが大切。

やさしさをどう表現すればいいかをあまり気にしすぎないように、普通に接する気持ちでいる事の方が「やさしい人」になったりするのではないだろうか。

わたしが両手をひろげても、 お空はちっとも飛べないが、 飛べる小鳥はわたしのように、 地面(じべた)をはやくは走れない。

わたしがからだをゆすっても、 きれいな音は出ないけど、 あの鳴る鈴はわたしのように、 たくさんなうたは知らないよ。

鈴と、小鳥と、それからわたし、 みんなちがって、みんないい。

『わたしと小鳥と鈴と』金子みすず氏の、誰もが知ってる代表作ですね。

「みんなちがって、みんないい」。本当は当たり前のことなのに、一つの基準で全ての価値を決めてしまいがちな僕たちにおいて、この言葉は鋭く優しく響きます。

価値や基準は一つではない。たとえ一つの基準が取り巻く社会であろうと、本質的な価値が失われることはない、そう思い出させてくれるすばらしい言葉です。