「疑う」ことは「否定」することではありません

「疑う」ことは「否定」することではありません

物事を「二元論」でしか考えられない人は結構います。

二元論とは、白か黒、勝者か敗者、成功か失敗、有か無、善か悪といったように、物事を二極的に判断してしまう考え方。

白か黒に分けるのは分かりやすく、気分的にスッキリします。数年前までは、キャリアにおいて「勝ち組」と「負け組」に分けようとする二者択一の考え方があった気がする。

スポーツとは違い、世の中には真の勝者も真の敗者も存在しません。ビジネスであれば利益額の多い方が勝者だと思ってしまいがちですが、利益額が多ければ多い程良いと盲目的に信じてしまうと、目先の利益に走り、「粉飾決算」や「脱税」といった法律を破ったりする事態が起きてしまう。

身近な例を挙げれば、働き方。

仕事に満足がいかない場合、人々は「会社を辞める」か「起業する」という両極端な選択肢になりがちです。

しかし、本当はそれ以外の選択肢もあるはず。

白がだめなら黒にするべき、白の考え方がダメなら黒の考え方しかない、白の裏は黒に決まっている。

オセロゲームじゃないんだから、こういった「モノクロ的思考」な考え方は、それ以外の可能性を切り捨ててしまうことがある。

世の中は、白でも黒でもないことがほとんどです。目的地は同じでも、いろいろな行き方があります。どれかが絶対に正しいなんてことはあり得ない。

白か黒かといった、二者択一の考え方に陥ってしまうと、本当は自分にとって最適な手段や方法がゴロゴロあるはずなのに、それに気づけない現象が起きてしまいます。

モノクロ的な考え方は、自分のやったことに対して0(ゼロ)か100かで評価してしまう完璧主義になってしまうこともあります。

また、今の辛い人生(黒)はいずれ、ハッピーな人生(白)にひっくり返る時がやってくる、という両極端な希望を期待してしまいがちにあるようだ。

情報過多といわれる現社会にいる僕たちは、自分にとっての最適な選択を見つけることに苦労しているのだろうか?

それは、単に情報がありすぎて、選ぶのに迷っているわけではなさそうだと思うが、どうでしょうか?

白を引っくり返せば黒になるという思い込み

両極端なモノクロ的思考を生み出す一番の要因は「思い込み」です。

そして思い込みを作り出すのは世間に影響された刷り込みである可能性が高い。

たとえば、ますます働き方の多様化が拡大つつある昨今、「好きなことをしよう」といった考え方をする人が多くなった気がします。

しかし、両極端なモノクロ思考でしか物事を判断できない人は、「好きなことをしよう」とおいわれると、今やっていることは「好きなことをしていない」のだと思ってしまうのです。

どういうことかわかります?

本来、好きなことをしようという選択は、まだまだ他にもあなたにとって可能性がある働き方があるにちがいない、という意味なのに、今の働き方を「好きなことをしていない」といった否定的になっているということです。

「A」という働き方がダメなら、「B」の働き方しかないのではなく、「C」という第三の選択肢を見つけることができなくなってしまっているのです。

不思議だとは思いませんか?

世の中はいつでも情報が手に入りやすくなったにもかかわらず、その莫大なデジタル情報を取り入れる人間は、白か黒、善か悪、好きか嫌いかという二者選択のモノクロ思考なままでいる。

いくら世の中が多用化しようとも、肝心の人間が両極端な考え方しかできなければ自分にとって最適な「好きなこと」なんて見つけることができません。

なぜ、人は世間に影響されやすく、その刷り込みによって「思い込み」になってしまうのでしょうか?

刷り込まれた「凡人の多数決の力」

僕が思うに、世の中の人と人とがつながりやすくなったがために、「凡人の多数決の力」と、日本人特有の「同調行動」が、人々に影響力を与えているのではないかと思う。

世の中の人の大多数は僕を含めた一般的な凡人です。

凡人が世間に影響力を与えるのは、多数決。共有でつながった多数決の力は、どれだけ力のある権力者をも、押し殺してしまうほどの力を発揮します。

さらに、凡人がゆえの多数決は、だれでも容易に理解できる事、つまり、「認識しやすいこと」が多かったりする。

あれがダメなら、これがいい、白がダメなら黒にしよう、といった一般人ならだれでも理解しやすい、わかりやすいことの方が共有されやすいのです。

つまり、認識しやすいモノクロ的な事は、わかりやすいので共有されやすく、凡人の多数決の力によって世間の「こうあるべき」を成立させてしまっているように感じます。

みんなといっしょがいい「同調行動」

そして、「同調行動」といって、日本人は、自分の意志とは関係なく多数派の行動を真似する傾向があります。

例えば、複数人で居酒屋に行ったとき、他のみんながビールを注文すると、なぜか自分も「私もビールで」と自然的に同じ行動をとってしまう。

他にも、数名の人が建物の上を見上げていると通りがかった人も建物を見上げてしまう、行列ができていると並びたくなるなど、「同調行動」は、まわりの動向を見たうえで自分の意見や行動を決めようとしていることから起きてきます。

集団の中では「みんなに好かれたい」「人とちがうことをして嫌われたくない」という心理が働きますし、「まちがいたくない」「正解を選びたい」という心理から行われることも多い。

みんなと一緒の考え方や行動をとっていれば、まちがえることはないだろう、と考えるのです。

しかし実際には、多数派がまちがえることもあるわけだが、それでも、多数派に所属しておけばみんなも一緒にまちがえることになるので、自分だけ嫌われることは起きない。

このような同調行動は、日本人特有の文化ともいわれ、そのほとんどが「凡人の多数決の力」によるものです。

「同調」から「協調性」のある多様化社会を目指して

社会で当たり前と言われていることのほとんどが認識しやすいモノクロ的なことで判断するべきだと思い込んでしまっているのかもしれません。

その思い込みによって多くのことが見えなくなってしまっていることをまずは知る必要があります。

何でもかんでも多数派意見を盲目的に信じてしまうと、二者択一のモノクロ的な判断を刷り込まれてしまい、目の前にチャンスが転がりこんでも、それを認識することができません。

あなたにとっての「チャンス」は他にも存在していますが、それを認識できないのはもったいないとは思いませんか?

では、どうすれば思い込みから目を覚ますことができるのでしょうか。

「疑う」ことは「否定」ではない

単純ですが、「疑う」ことです。自分の選択肢は本当にこれだけなのかと疑うことが必要です。

ここで、注意するべきことは、「疑う=否定」ではない、ということです。

物事を良い悪い、好きか嫌いか、善か悪かで判断しようとすると、それこそモノクロ的な二元論に陥ります。

そうではなく、疑うとは「他の方法はないか」という第三の選択肢を考えること。

物事に対し、違和感を感じたり、不快な思いがするとき、それは自分にとって「本当に必要か」と考え、それを否定するのではなく、「他に手段はあるかもしれない」という第三の選択肢を探そうとする多様的思考を身に付けることが重要なポイントです。

この考え方ができると、凝り固まった思考に陥ることもなく、世間の刷り込みに影響てしまうことなく、自分が本当に「やりたいこと」を見つけやすくなるはずです。

チャンスを見出すには、社会で漠然と信じられていることを疑ってみることです。

何をするにも、最初から無理だと決めつけず、自分の中の「思い込み」を認識し、一度疑ってみてください。

とはいえ、自分が信じていることを疑うのは勇気がいるかもしれません。

これまで信じていたことが実は思い込みだった、と気づいてしまえば、これまでの人生は何だったのかとアイデンティティクライシス(自己喪失)に苛まれることもあるかもしれません。

しかし、実際のところ、多数決に影響された思い込みは、モノクロ的な二元論がほとんどです。

つまり、たった2つの選択肢でしかないのが、世間に流れている「こうあるべき」であり、一般庶民の多数決で決まったことでしかなく、必ずしもあなたに最適だということはないはずです。

そんな多数決意見の刷り込みによる思い込みが崩れようと、それまでの人生が無意味になることはまず、ありえません。

むしろ、それまで見えていなかった無限の可能性に気づけるはず。

そうやって見えた可能性を活かすために、蓄えた知識や経験を活用すれば良いのではないでしょうか。