過去の「~たら、~れば」と未来の「~たら、~れば」

もし~だったら、もし~していれば、○○だったろうに。
ほらまた、「たられば」話ってつい、しちゃうだろう?
(ちなみに、漫画作品の「東京タラレバ娘」、ツイッター人気の「たらればさん」とは無関係のお話です。)
もし、もっと頭が良ければ人生かわっていたのに。
あのとき、もう少しがんばってれば、上手くなってただろうに。
・・・
主に、過去あるいは、現在の事実とは異なる仮定としての話に使ったりするよね。
「~だったら」とか、「~していれば」とか、そんなこと言ってもしゃーない。って言われるし、自分自信も、意味ねーこと考えても無駄だ、と自覚しているはずです。
どうして、「~たら」とか「~れば」の事実でない話をしたがるのでしょうか。あるいは、心の中で想像してしまうのだろうか。
今の自分に「不満」がある、過去の経験が今の自分に何かしらの悪影響を与え、「後悔」しているから、とかでしょうか。
今回は、どこに不満があったのか、何に後悔をしてしまっているのか、なぜに「タラレバ話」をついやってしまうのか、そこんところを紐解いてみましょう。
どんな「タラレバ話」をしても満足できる保証はない
じゃぁ例えば、あなたが、「もし、金持ちの家に生まれていたら、今ごろもっと豊かな人生になっていた。」って思ったとします。
ホントにその理想通りだとしたら、今現在、豊かな人生になっているという保証はあるだろうか?
ないよね。賢明な方ならそのへんはわかるはずです。
なんでもいいので、ご自身の理想的なあらゆる「タラレバ話」を想像してみて下さい。
それがホントにそうだったと仮定したとき、今以上に満足できてはいるだろうか、幸せになっているという保証はあるだろうか?
ないよね。おそらくどんだけスペシャルな理想のタラレバであったとしても、結局は「~たら」「~れば」の話をしてるはずです。
まずは、そこんところに気づいてください。いかなるタラレバ話を想像しても、満足できる保証は必ずしもない、と。
では、なぜ、いかなる最高峰のタラレバ話をしても、満足できないといいきれるのでしょうか?
その理由を説明するのはカンタンで、根本的に「現状を満足できない自分」の思考が物事をそう考えてしまうから。
スペシャルなタラレバを想像しても、今の自分がそれに満足できるだけの能力がないから、いえ、現状を満足できるその「術」をしていないからとも言えます。
たとえば、真夏の暑い時期になると、涼しくなりたいと思うし、真冬の寒い時期になると、暖かくなりたいと思う。
だけど、真夏の暑いときでも快適に過ごせるのは、冷房をつけたり、冷たいモノを飲んだりとか、暑いという現状に満足するための「術」をしっている。
真冬の寒い時も同じで、暖房をつけたり、厚着したりとか、寒いという現状をどうにかして満足するための「術」をしっている。
となると、現状に満足するためには、自分がそれに満足できるだけの能力や術をしっているかどうかだということになります。
しかし、しかしですよ。
「もし、もっと頭が良ければ」って思ってしまうのは、過去の自分が、頭のよくなる術を知っていなかったからだろうか?
ちがうよね。もっと、がんばって勉強しなかった自分に後悔してるんだよね。
真夏の暑い時期に、冷房をつけたら涼しくなることを知っていても、つけなかったら全然涼しくはなりません。満足できません。
熱中症に患うことになってしまうと、きっと「後悔」するでしょう。
やらなかった後悔
つまり、現状に満足するための能力や術を知っていようと、それを「やろう」とする自分がいない限りは、満足できないし、後悔することになる。
「もしあの時、節電のためとやいえ、ちゃんと冷房をつけていたら熱中症にならずにすんだかもしれない。」
「もしあの時、友達の宿題をうつしてばかりしてないで、ちゃんと自分で考え解いていれば、もっと頭がよくなっていたかもしれない」
「~れば」、「~たら」という理想の話は、少なからず可能性があったことだと「後悔」するのです。
つまり、「なんであの時」って思えるタラレバ話は、少なくとも「できたかもしれない」ということであって、「やらなかった後悔」をしているんです。
芸能人の子供にうまれていたら、とかほとんど可能性がゼロに近いタラレバ話をしても、満足できる保証はない。
「できたかもしれない」というタラレバ話をすると、「やらなかった後悔」をしてしまう。
つまり、共通していえることは、現状を満足しようとしない自分がいるから、タラレバ話をして、ごまかそうと言い訳をしているだけだったりする。
今現在、もっとお金があったら、もっといい車に乗れたら、もっといいパートナーに恵まれたら、と思ってしまうのは、満足できない事実があるのではなく、満足しようとしない自分がそこにいるからです。
とはいえ、今の自分に満足するとか、現状を受け入れることって、言葉でいうのはカンタンだけど、本心からそう思えるのってすごく難しんですよね。
どうすれば現状に満足できると思いますか?
逆に、どうして今の事実である現状に満足できないんでしょうか?
どうして過去から現在のことにタラレバ話とかしたりして「後悔」してしまうのでしょうか?
挑戦し続ける人生に後悔はない
それは、「納得」してないからですよ。
やれるかもしれないのに、やろうとしない、失敗したらどうしようとか、「できない理由」をつけて、挑戦しない選択を今現在しているからです。
「やりたい」と思っても、できない理由をつけて、挑戦しようとしない。
やらなかったことは、いつまでも心に残る。
仮にできなかったとしても、必ず「納得」はする。「できない後悔」も悔しくはあるが、「納得」はできる。過去を振り返っても、今現在でも。
いいですか、「できない後悔」よりも「やらなかった後悔」のほうがずっとずっと辛い未来が待っているんです。
あなたが、過去から現在の自分に「~だったら」「~していれば」とかして後悔するのは、「やらなかった後悔」をしているのである。
それは今現在に焦点をあててみると、「できない理由」をつけて、挑戦しない選択を、今現在しているからです。
つまり、今の現状を受け入れ、タラレバ話でごまかすことなく、今の自分に満足したいなら、「挑戦しようとする心構えに納得する」ことが明るい未来を創っていく。
今現在、もっとお金があったら、もっと頭が良ければとか、覆せない事実にめいってないで、そうなろうとする自分に「納得」しない限りは、現状満足はできません。
タラレバの元は「対人関係」
人は、今現在、「もっと~していたら」とか、「もし~していれば」とか思ってしまうと、理想に到達できていない自分に対し、まるで劣っているかのような感覚を抱いてしまいます。
こう思ってしまうのは、他人と比較したり、人の目ばかりを気にしたり、人から嫌われるかもとか、「対人関係の中で傷つくことを恐れているから」ではないでしょうか。
「もし、お金持ちの家に生まれいれば~だったかもしれない」と思ってしまうのは、他の誰かと比較しているからじゃないですか?
「もっと頭がよかったら、~できたかもしれない」と思うのは、学生時分にクラスの中の友達(他人)と比較して自分の成績順位がよくなかったからではないだろうか。
他人と比較してしまうと、理想に到達できていない自分から逃れることはできません。
なぜなら、お金持ちがいい、頭が良ければいい、有名大学の学歴がすごい、とかは、あくまで「客観的な事実」であって、あなた自身が定義したことではないはずだ。
他人が勝手に決めたことに悩まされていては、永遠にどこまでも「~たっだら」「~していれば」といった、あなたの心の中でかってにこしらえた「コンプレックス」を持ってしまう。
今の自分が何者なのかを「自信を持って」受け入れ、「主観的な事実」に目を向けなくちゃいけない。
だが、状況は主観的な事実に基づいた、一歩でも前進しようとする努力でのみ、未来は変えられる、という事実を受け入れられないことが多い。
「どうせ自分なんて」「どうせがんばったところで」と、あきらめてしまうのは、客観的な事実による自分が「どうであるか」に満足しようとしているからです。
じゃなくて、他人と比較せず、人の目を気にせず、嫌われることに拒まず、自分だけの主観的な事実が「どうであるか」ではなく、「どうするか」を更新し、納得できるように、挑戦しなくてはいけないと思う。
自分がつい、タラレバ話をしてしまうのは、他人との比較による「劣等感」ではなく、自分自らがつくりあげた「コンプレックス」です。
あなた、他人を気にしてしまうかもしれないが、他人だけのコンプレックスは気にしないはず。気づきもしないはず。
ということは、あなたは誰かに比較されることはあるかもしれないけど、あなたのコンプレックスは、だれも気にしてはいない。
「自分のココを気にしているのは、自分だけ」「あなたのソレを気にしているのはあなただけ」
少し言い方がきつくなるかもしれませんが、過去から現在の事実にタラレバ話でごまかそうとしているのは、自意識過剰な反応をしているだけともいえます。
結局は、他人を気にしながら、自分自身でわざわざ苦しめているのではないだろうか。
だからといって、なげくことはありません。後悔することも一切ありません。
もしかすると、あなたは、つい「タラレバ話」をしてしまう、タラレバ症候群になってしまっていかもしれません。
だったら、そのタラレバ話を今後一切してはいけない、とはいいきれません。
というのも、タラレバ話ってのは、過去から現在までのことに「希望」とか、「夢」とかを描こうとしてるってことだよね。
その「希望」や「夢」を自分にとっての本当にそうなりたいことで、今でも叶えたいと思っているなら、その過ぎ去ってしまった過去と、事実でしかない現在に希望と夢を描くことができるんだったら、それをそのまま「未来」にシフトすればいいじゃないかって話。
過去の「~たら」「~れば」ができない理由で挑戦しなかったのなら、未来の「~かも」という、できる理由に置きかえ、挑戦しようとすることに変えてみるのはどうだろうか。
もし、あの時○○をしていたら、△△も夢なかっただろうに。
→
もし、今から○○をはじめたら、△△も夢じゃないかも。
もし、あそこであきらめなければ、○○できただろうに。
→
もし、ここであきらめずに続ければ、○○できるかも。とか。
未来に向けた「タラレバ話」ってのもありかと思うが、どうでしょうか。
要は、今の自分が何者で、考え方や容姿、性格、環境を「否定」するのではなく、繰り返しになりますが、昨日までの自分から更新し、今から変わろうとする自分自身に「納得」できるかどうかということです。
自分の過去が「どうであったか」なんてことはどーでもよくて、今現在「どうするか」、未来に向けて「どう挑戦するか」に納得できる自分を目指そう。