承認はされるものでもあり、するものでもある

承認はされるものでもあり、するものでもある

認めてほしい、ほめてほしい、賞賛されたい……

こうした普遍的な欲求を「承認欲求」という。

承認欲求は、人が仕事や趣味を通して自己実現を果たしていくうえでエネルギーとなってくれることがあるその一方で、さまざまな問題を引き起こす原因となることもあります。

「認めてほしい」「私はこれだけの事をしているんだ」

自分の実力や、実際に行った行動以上に評価ばかりを求めようと一方的なアピールが前面に出てくると、周囲の人からしてみれば、実に恩着せがましく感じてしまうこともある。

承認欲求が強い人は、人目があるかないかでやる気にムラがある。すべて「人に見せるためのもの」なので、上司や恋人、親や教師の前では一所懸命に頑張る姿を見せつけ努力します。

しかし、その場を見て褒めてくれる人がいなくなった極端に、モチベーションが落ちてしまう。

例えば、ボランティアで街の清掃をする、そんなときには張り切っているけれど、誰もいない教室にごみが落ちていても拾わない、とか。

こんな人はまさに「承認欲求が強い人」。

承認はされるものだが、するものです

自分が認められたい事はよくないことなのだろうか?

そんなことはありません。承認欲求の強さは人によって異なりますが、睡眠欲や食欲と同じように人間の根本的な欲求の一つです。この欲求が満たされないと、ストレスとして溜まっていくことになります。

承認のベクトルが、自分にむいているのか、それとも相手に向いているのか?

承認とはされるものだと思われがちですが、してあげることの方が実は大切なのです。

自分を認めてもらおうとするのではなく、他人を認めてあげること。

すると不思議な事に、他人を認める事で、「自分の認めてほしい」が満たされ始めてくる。

なぜなら、人は、認めてもらったその分だけ、この人は私をわかってくれているという心理が働き、見返りを求めなくとも、返報性の原理によりあなたの欲求は満たされてくる。

振り子のように、左に振った分、同じだけ右に振ります。左の振り幅が大きければ、必ず同じ分だけ右に大きく振ります。

ただ、相手を認めたのだから、自分を認めてもらえるはず・・・では、本末転倒というもの。

そういった心境は、先に紹介した、損得勘定の行動、卑しさ、相手を選んで態度が変わる、など必ず態度に出てきます。

「自分は承認欲求の自覚は到底ない。」そういう人もいます。

「別に認めてほしいからじゃない!」「なにもあなたにこうしてもらいたいなんて微塵もおもっていない。」

承認欲求が強い人は、意外と自分が承認されたいという欲求があることを認めたくないという人もいる。

ですが、良く考えてみよう。「自分は認めてもらおうという気持ちなんてない。見返りなんて全く求めていないんだ。」というそんな思いを、“ 認めてもらおうとしている”。

実は、人には必ず承認されたい欲求はあるものです。単にその度合いが強い人とそうでない人が存在するだけなのです。

誰しも、自分を認めてほしいという思いは完全に消し去ることはできない。その気持ちを無理に押し殺そうとする必要はないのです。

人は、相手に認めてもらうことで自分を認める事ができるのですから。

あなたはどこかで必ず承認されている

自己効力感や自己肯定感の強い人であっても、バックにしっかりと他人の承認の支えがあるというもの。

誰だって気づきにくだけなんですよ。

よく、自己肯定感が極端に低い人が発することに、「自分は何のために生まれてきたのだろう?」という問い詰め。

しかしそれは、あなたが認めた相手の承認は、どうなってしまうのでしょう?

相手の承認を撤回する?それともそんなものに価値はない?

自分は何のために存在するのか?という自己批判は、他人の存在を認めていないことに繋がってくるとは思いませんか?

親、兄弟、友達、恋人、先輩、先生、上司・・・。

あなたというたった一人の人間にはこれだけの、いやこれ以上の対人関係を持っています。

実際、あなたは知らない所で認められている。

たった一人の人間に数えきれないほどの承認というプレゼントを受け取っていることに気づきにくいだけなのです。

承認欲求の強い人は、他人から認めたいとも思っているが本当は、 “ 自分で自分を認める強さ持ちたい ”。

自己効力感を強く持ちたいと願っているはずです。

ならば、自ずと答えはハッキリします。

あなたが、プレゼントするのです。自分に向けた承認のベクトルを、心の矢印を相手に向け、あなたがまずは、承認する勇気を持つことです。

なぜなら、他人に貢献することによって得られる意味と満足感こそが、自分の最大のエネルギー源であり、自己肯定感や自己効力感を超えるものになりえるからです。

承認とは、言葉の表現ではなく相手を「理解する」こと

さて、何度も繰り返し相手を認める事が大切、相手を承認することが大事な事だと綴ってまいりました。

しかし、むやみやたらと相手に対して、「あなたは素晴らしい!」「あなたこそが・・!」

など、意味を持たない普遍的な承認は、相手の認めた本質的な承認とは言いかねます。

もちろん、意図して相手を励ますあなたの行為は素晴らしいのですが、然るにそれは、あなた自身の自己満足。

相手を承認している自分を認めたい。つまり、心の奥底に(こんな私を評価してください)が宿っているかもしれません。

それと、注意しなくてはいけないことがあります。

「アドバイス」です。自分が良かれと思うアドバイスは、時に相手に対する「意見」になることもある。

ほとんどの場合、相手の行為を否定的に受け止め、「私はこう思う」「こうしたほうがいいよ」と言ってしまっています。

意見とアドバイスは異なりますが、受けて側にしてみると、「わかってもらえた」感覚がないのは同じです。

ならば、まず、あなたがするべきことは、相手を「理解」する事から始めてみよう。

人は、「理解されている」と感じた時、コミュニケーションを取ろうとしますが、「理解されていない」と感じると、離れようとする。

人と繋がりを感じ取るだけでも自分の存在意義、つまり承認された思いをしたりします。

承認されたい、認めてもらいたい行為を究極的につきつめれば「理解してもらうため」ということが言えるかもしれません。

私たちはみんな、理解されたい生き物。毎日のあらりまえの日常生活も、仕事も、遊びも、お金を稼ぐことも、「理解してほしくて」あらゆる行動をしているように思えます。

相手を理解するとは、たとえ、認めざるを得ようがない他人に対しても、その等身大の姿をしっかりわかってあげる事です。

相手の失敗や、頼りなさを感じ取ったとしても、相手の立ち場になり、その気持ちを理解しようとする事。

他人がひどく悲しい思いにふけっている時、その行為を「承認しよう」としても、本音はあなたのその悲しむ気持ちがわからないため、本質的に認めることはできません。

しかし、悲しむ相手の気持ちを「理解しよう」とすると、「私はあなたと気持ちと同じです。あなたのその悲しい気持ちを認めたい」という心境が働き、結果相手にとって本質的な、「わかってくれている」は伝わるもの。

相手の立場になるというのは簡単な事ではありません。相手の気持ちを全て理解しようとしてもできません。

それは、自分という「フィルター」がかかってしまうから。

自分の考えを完全に外して、相手のことをそのまま受け止めるのを目指したいのですが、「自分の考えというフィルター」を通して相手を見てしまっている。

そして、そのフィルターを外すのは容易ではない。このことをまずは自覚し、相手の話をゆがめないように意識しなくてはいけない。

まずは、「聞く」事に気をくばろう

相手になりきるためには、自分フィルターをはずせばいい。つまり、「自分の考えをを消す」という事も考えられます。

ただ、これは最も難しく感じるかもしれません。

なぜなら、人は自分の事さえ理解できないため、まずは自分を理解するために考え方をブレずに固めようとするから。

そんな自分の考えを一旦消し去り、相手の考えを理解しようと思ってもそのフィルターを外すことは難しいでしょう。

そんな方はまずは、ちゃんと相手のいう事を「聞く」ことに気を使ってみよう。

相手の事を理解するに、到達するために、具体的に重要なのは相手の「話を聞く」ということです。

「聞く力」がなければ、なかなか相手を理解することができません。相手の感情を自分のもののように味わい、感じながら聞いてみる。

極論、もう二度と会えない人だと思って、話を聞いてみてはどうだろうか。その深い共感は相手にも伝わるはず。

相手は「自分のことをわかってくれている」「お互いにわかりあえている」と感じ、たとえ初対面でも強い信頼関係で結ばれ、あなたと離れたくない、また会いたいと思うでしょう。

感情を共有するには、自分をいったん脇に置き、相手の感情にフォーカスします。

そして、自分の中にある感情を引き出して相手とシンクロさせるようなイメージ。

まったく同じ感情は無理ですが、似た感情を引き出して味わう。

自分を消すのと矛盾しているように感じるかもしれませんが、このときに自分の価値観やルールを持ち出さないということ。

さぁ、承認欲求社会に移ろう昨今、あなたは、承認する側ですか、それとも承認される側になりますか?

高機能フィルターが取り付けられた空気清浄機は、周りの「空気」が浄化されても、足元のゴミはキレイになりません。

それはつまり、掃除機や雑巾で部屋の掃除をしない限り、いくら空気清浄機をかけようと、世間の空気はキレイにならないという事です。