言葉でわかる。心の矢印

心の矢印はどちらに向いていますか?
「平成も終わったね~」
「令和の時代が来るね~」
前者の心の矢印は過去へ。後者の心の矢印は未来へ。
両者が交じり合う今日(こんにち)、なんだか不思議な感じがします。
過ぎ去りし過去を思い、未来を思う、希望と平和。
一生のうちにこのような人々の心の広がりを、時代を跨ぐ心のネットワークを感じる日は、今日が最初で最後の体験かもしれません。
過去を思う、未来を誓う、どちらがいいとか悪いとかじゃない。そんな小さなレベルで考えていたらいけないね。
様々な思いが交じり合う人達の今日、結局みんな同じなんだろう。
時間という概念に置き換えた時、世の全ては時の流れは平等に。
心の矢印が過去に向いている人は過去の宝物をシッカリと持って、心の矢印が未来に向いている人は、新たな宝物を探しに行く。
そうか、今日は時代が変わったんじゃない。
改元を境に「志」を受け継いたんだ。

PCデスクの置時計の長針と短針がまもなく重なり、平成から令和へとバトンタッチされます。(今はすでに改元されているでしょうが・・)
終わりと始まりが重なり合う。終わり、それは始まり。
平成「後は頼んだよ。」
令和「おう!まかせとけ!」
さて、「平成も終わりだね~」「もうすぐ令和の時代だね~」は、対称的です。
過去と未来も、対称的です。
対称性とは、「それぞれが互いに向き合う位置関係にあること」です。
専門用語では、「シンメトリー」といって、左右対称で釣り合い調和していることをいいます。
「どれだけ頑張ってもむくわれない・・・」
「どうして自分だけが・・・」
「世の中理不尽なことばかりだ・・・」
理不尽とは、「どうも納得いかない。」という意味。
人は目標を達成するためや、ストレスを緩和するために、仕事や日常生活で日々さまざまな努力をします。
しかし、多くの場合はそれは「無駄」な努力に終わり無力感が残り、場合によってそれは、他人から見れば「無駄な抵抗」に終わっているように見える。
そんなときに「世の中は理不尽だ」と感じることになる。
いや、もちろんそう感じない人もいます。
実際、無駄な事なんてのは悪戯を測らない限りは決して無駄にはならない。と思います。
しかし、どうも納得いかない。理不尽に思える。となると、どこかに「無理」があるということ。
理不尽だとおもっているのは、世の中なのか?
それとも、私達の頭の中で勝手に思っているだけなのか?
今回は、「対称性の錯覚」と題し、対称的なモノは実は、対称的でない。
シンメトリーの錯覚が理不尽の原因かもしれない。についてお送りしましょう。
対称性の錯覚
本当は対称でないものを対称だと勘違いしている。
「同じ」と「違う」は、対称的な言葉として使われるが、よくよく考えてみると、非対称的だ。
「同じ」は一通りだが、「違う」には何通りもある。
続いて、「変える」と「変えない」。
変えないのは楽で無難だが、変えるには膨大なエネルギーが必要です。
「知っている」と「知らない」。
知らないことは知っているに変えることはできるが、知っていることを知らないに戻ることはできない。
「外見でその人の印象が決まる」と、「中身のある人がその人の人柄を決める」という対称性はどうか?
前者は、理不尽に思えるが、後者はほとんどの人が納得する。
「生れた時から家がお金持ちの富裕層」と、「貧しい家で育った成り上がりの富裕層」という対称性。
人は、なぜか「比較する」癖がある。その時大抵は「対称性の比較」をしてしまいがち。
シンメトリーとは、左右対称で釣り合っていることをいう。つまり、対称的なモノは釣り合うのが合理的だと「錯覚」してしまう。
Aという出発点から、Bという終着点に向かった時に要する時間や労力は、Bから再びAに戻った時、同じ条件ならば、時間も労力も同じになるはず。
しかし、実際は、途中に信号があったり、坂道があったり、道中で知り合いにばったり会って話し込んでしまったりなど、必ずしも「A → B」=「B → A」にはならない。
なぜ、このような対称性の錯覚が起きてしまうのだろうか?
そこには、「自然の原理」があるからに過ぎないからではないでしょうか?
例えば、AからBまでボールを投げた時を考えてみよう。

「A → B」にボールを投げた時と「B → A」にボールを投げた時、条件は同じだが、異なる結果となればそれを「不合理」だと感じます。
しかし、全く同じ「A → B」を90度傾けた場合、果たして「A → B」=「B → A」だと思うだろうか?

AからBにボールを投げた時、BからAには「落ちてくる」ため、「A → B」=「B → A」などとは誰も思わないし、それを不合理だとは感じないはずです。
「左右」に関しては同等と考えることにあまり違和感を感じないが、「上下」を同等に考えるのには違和感を覚える人が多い。
これは、「上」と「下」との間には「重力」という自然の原理が働いている。
モノは上から下には他に力が働かなくても落下するが、逆向きに自然にモノが動くことはありません。
つまりこれが上下が非対称であると直感的にわかる決定的な理由なのです。
これと同様に、先にあげたようなさまざまな「対称性の錯覚」の陰には、重力ほど明らかでなくとも一方向に作用している「見えない力」あるいは「見えないメカニズム」の存在が確実にあるということ。
人は、何かを「比較」する時、「相対的な比較」をしてしまう。
その相対性が得てして人の判断の非合理にさせることがあるということ。
比べやすいものを比べ、比べにくいものを自然と選択肢から排除する傾向にあります。
その比べやすいものとは、シンメトリー。つまり、「つり合いのとれた対称的なモノ」をチョイスしてしまうようだ。
水は低きに流れ、人は易きに流れる
「水は低きに流れ、人は易きに流れる」とは、川の水は低い所へ流れ落ちていくものであり、自然の成り行きは止めようとして止められないもの。同様に、人の心もまた、安易なほうに流れていくものという戒めの言葉として使われます。

世の中には、対称性たるモノが実は、非対称性であることが多い。
しかし、対称的なモノはシンメトリーであるがゆえに、釣り合わない時それを理不尽、不合理だと錯覚してしまうことがある。
例えば、厳しい事から楽な事へは容易だが、楽な事から厳しい事へシフトさせるのは相当の覚悟が必要だ。
続けるには、忍耐力を要するが、やめるのは一瞬でできる。
生活水準を上げるのは簡単だが、下げるのはなかなかできない。
これらに共通するのは、人は一般的に、保守的であり、「変えること」よりも「変えないこと」を選びます
しかし、「現状維持を望む」ことは、「水は低きに流れる」と同様で、それが人間心理というもの。
そして、現状維持を望む心理が最も働くときは、相対的な変化です。
相対的な変化を感じた時、「それは理不尽だ。」「どう考えても不合理である。」と、自分の中で大きな歪みを作ってしまっている。
ずっと一貫して真面目を貫いた人は、不良から更生した人の方が賞賛されることに理不尽を感じる。
学校で、普段からキチンと掃除をやっている人は、たまに掃除をしてほめられることに理不尽を感じる。
虫が嫌いは冷たい人だとは思われないが、動物が嫌いな人は冷たい人だと思われがちだ。
・・・
イニシアチブを取るのは誰か?
よく考えてみよう。
大抵の理不尽は、自分が主体となっていることに気付くはずです。
次の場合ではどうだろうか?
ずっと不真面目な自分でいたが、不良から更生した人が賞賛されるのを見た時、自分も影響された。
普段から掃除をさぼっている人が褒められるところを見ると、自分もやろうって思えてきた。
「世の中は理不尽だ。」は、もしかすると、自分を主体とし、相対的に比べやすい対称性のモノを選択し、自分の中で勝手に不合理を生み出す錯覚を生じてしまっているのかもしれません。
それは理不尽だ。と感じた時、それは、自分から相手に向けた矢印がそうしているに違いない。
それは不合理だ。と感じた時、それは、過去の自分に向けた矢印がそうしているのではないだろうか?
平成が終わった今日は、令和時代の始まった今日。
「平成が終わったね」「令和時代が始まったね」
対称性が重なった今、あなたの心の矢印はどこに向いていますか?
時に、矢印を自分へ、時に、矢印を相手へ、過去へ、未来へ。
言葉で分かる、心の矢印。
相手がわかる、心の矢印。