のろまな天才が教えてくれた「好きなこと」への熱中

のろまな天才が教えてくれた「好きなこと」への熱中

現実ではまずありえない。未来のお話だと想定します。

ミライ君は、カコちゃんの家に行こうと思ったのですが、カコちゃんは別の惑星に住んでいるので、家に着くまでに、光の速さで5分はかかってしまいます。

(未来のお話です)そこで、ミライ君は、光の速さの乗り物で、カコちゃんの家に行きました。

ミライ君は出発する前に、カコちゃんに電話で、「今から行くから待っててねー。」といってすぐに向かいました。

こうしてカコちゃんの家に向かったミライ君。さて、カコちゃんの家まで、何分かかったでしょうか?

答えはすぐにでましたか?

もしこれが、なぞなぞ的なひっかけ問題だ思ったかたは、「光の速さで5分だから、5分に決まってんじゃん。」

「だって、ロケットで5分だろうが、タケコプターで5分だろうが、カコちゃんの家までかかった時間は5分。」

だから、「光の速さで5分なら、当然5分が正解。」なるほど、カコちゃんの家までかかった時間は5分で、「どのくらいの速度かどうかは関係ない」、ということですね。

では、正解をいいます。正解は「0分」です。

時間がゆっくり流れる不思議な現象

では、先ほどの問題のつづきです。

「0分なんてありえねーよ。」と考えるのが普通です。

もっと、ありえねーことを言うと、ミライ君がカコちゃんの家までかかった時間は「0分」ですが、カコちゃんはミライ君が電話をしてから家に着くまで待っていた時間は「5分」です。

ミライ君は「0分」で着いた、カコちゃんは「5分間」待った。不思議ですねー。

この問題は、「光の速さ」がカギを握っています。光の速さは、1秒間に約30万kmも進みます。それは、「地球を7周半もする距離」、というのは聞いたことあるでしょう。

余談ですが、インターネットの光回線は秒速約20万km。光の速度とはいわなくても、それにしてもはえー。次世代通信回線網「5G」もそのくらいの速度だとされている。はえー。

さておき、じつは、光の速さに近づけば近づくほど、「時間はゆっくり流れる」とされています。

そして、光の速さになると、ほどんど時間は流れない。だから、家でミライ君を待つカコちゃんにとっては、「5分」だけど、光の速さで進むミライ君の時間は、まるで止まってしまったように感じたのではなく、実際「0分」なのです。

じつにじつに、おかしな話ですが、時間というのは、常に同じスピードで進むものではないのです。このことを数字で表したのが、あなたも聞いたことがあるであろう「相対性理論」なのです。

天才の代名詞ともいわれている「アルベルト・アインシュタイン 」が1905年から作り上げた物理の理論で、そりゃぁもう難解極まりない論理です。

先ほど、光の速さに近づくほど時間はゆっくり流れる、といいました。

実際は、光の速度でなくともかまいません。そのへんを走る車も、歩く人も、飛ぶ飛行機も、実は時間は遅く流れているのです。

ただ、遅くなる時間の量があまりにも小さすぎて、私たちの間隔ではとても捉えられないでいるだけなのです。

「双子のパラドックス」という有名な話がありますが、ご存知でしょうか?

双子の兄が高速の宇宙船で旅行をして10年後に地球に帰ってきた。宇宙船の速度は光速に近い秒速20万キロメートルです。

地球では12年の月日が経っていましたが、この時宇宙旅行をしていた兄の時間では8年しか経過していません。つまり、光速に近い速度で動いていた兄の時間は地球に残った双子の弟よりも遅く進んでいたため弟よりも2歳若くなるというものです。

普通に生活している人なら、時間の進み方に早く感じるとか、遅く感じるとかはあっても、現実に時間に差があるなんて「そんなの信じられない」って思います。

ですが、この光に近い速度で時間の差を利用したものがあります。それは、人工衛星に電波を飛ばして、自分の位置を調べる「GPS(ジーピーエス)」がそうです。

すごく簡単に説明すると、超高速で周回するGPS衛生は、地球上の時間よりも、遅くなってしまいます。先ほどの「光の速さに近づくど時間がゆっくり流れる」という相対性理論ですね。

GPS衛星では地表の時計に比べて1日あたり0.0000286秒ほど時間の進みが遅くなるといわれてます。距離でいうと、1日で約9kmの誤差が生じるといわれています。

GPS衛生からの位置情報が、9kmもズレてしまうのは、ハッキリ言ってそんなの使い物になりません。

だけど、地球からはるか離れたGPSからの情報を時間の誤差もなく伝達できるのは、GPS衛星に搭載された原子時計は相対論の効果を打ち消すべく、地表の時計に比べて1日当たり0.0000286秒だけ早く進むように補正が行われているからなのです。

つまりそれは、高速で周回している人工衛生は、「時間がゆっくり流れている」という証拠である、ということです。

相対性理論では、このような「光の速さ」をテーマに、さまざまな現象が起きるとされています。

有名なところでいうと、先ほどの「時間がゆっくり流れる」他には、「物体が縮んで見える」「重いモノの周りでは空間がゆがむ」などがあります。

「物体が縮んで見える」というのは、(だんだん話がつまらなくなってきましたが大丈夫ですか?)、光の速さでなくとも、そのへんを走る車も、歩く人も、実は縮んでいる。縮む量があまりにも小さすぎて、私たちの目には識別できないだけなのです。

さて、そろそろ分からなくなってきたでしょうから、相対性理論を語るのはよしましょう。

「のろま」で「バカ正直」が世紀の大発見をする

「のろまー!」「バカ正直やろー」。

アインシュタインは、小学生時代、クラスメイトからいつもこう言われていたそうです。

のろまで、バカ正直。何をやってものろのろ失敗。そんでもって、何でも人のいう事を信じてしまうバカ正直者。簡単にできることもわざわざ面倒なやり方をして失敗する要領の悪い子。

アインシュタインの子供の頃は、こんな感じだったそうです。

何しろ、3才までまともに人と話ができず、9才くらいまで言葉を正しく使えなかったといいます。

そんな彼が世紀の大発見ともいえる「相対性理論」を説き、今では「天から才能を授かった人」とまでよばれるようになった。「のろまで、バカ正直」な子供が、です。

とにかく彼は、勉強というものが大嫌いだったそうですが、数学だけはメチャクチャ大好きだったそうです。なので、数学以外の成績はからっきしダメで、「何でもそこそこできる子」がもてはやされていた当時、彼の「これだけは得意」は評価されなかったとか。

何でもそこそこできる人は、確かに立派です。ある程度は一般レベルの知識がないと、生きづらいのかもしれません。

ですが、じつは世の中は、たった一つの得意な事、それも人よりはるかに得意な事があれば、それだけで生きていけるもの。

まるでダメだった子供時代をすごしながらも、相対性理論で世界の学者たちに感動をあたえたアインシュタインがよい例です。

ただ、そうなると、「得意な事がひとつもないんだけど…」と落ち込む人がいるかもしれませんが、アインシュタインは、こんな言葉を残しています。

「わたしは天才ではない。ただ、人よりも長く、ひとつのことに付き合っただけだ。」

つまり、「ひとつの好きなことを、長くやり続ける」ことが、自分の “ 得意なこと、好きなことを見つけるためには必要 ” だということです。

好きな事は「やり続けて」ようやく見つかる

誰も、自分は何が得意で、何が本当に好きなことなのかなんて、わかりません。なぜなら、長くなが~く、そのことに付き合ってみないとわからないからです。

もちろん、やり続けるには失敗は必ずあります。アインシュタインだって、自分の理論をまとめるのに、何百回という失敗を繰り返したそうです。

だから、ときにはすごく好きだったことが、大嫌いになることだってある。それでも、続けていれば、それはいつか必ず、「得意なこと」へと変わるのです。

無理に好きな事を探す必要なんてありません。個性が尊重され、多様化しつつある昨今ですが、だれも「自分で好きな事を見つけろ」なんてことではない。

「他人の言う事を気にしない自分の思ったようにしろ」などといわれますが、それこそ自己責任の「重圧」になってしまいます。

自分で責任もって、やりたいことも探し、そんでもって自分の考えを自分で探しそれを貫きとおせっていわれても、然るに子供がそんなことできますか?大人だってできませんよ。

これからは、個の時代だ、なんでもできる多様性の時代だ。そんなことばかりが浮きだってしまうから、何をどうしていいかわからないでさまよい続ける「孤独なマイノリティー」の存在が増えつつある。のではないだろうか。

基本人は、一人では生きてはいけない。これは、どれだけ社会が便利になろうと覆すことはできません。

個性とか、多様性とかは、確かに誰が何をしようが否定されない、差別されない柔軟さはあります。自分がやりたいことは何でも受け入れられる自由な社会になりつつあります。

ですが、それは、自分一人では見つけるなんてことはできません。人と人のつながりやチームワークの中にいて、そんな経験から「これやりたいな」とか、「こんなことしてみたいな」とか、社会にもまれながらも経験し気づかされることでようやく何かが分かりはじめるのだとおもう。

社会に溶け込む会社員の一員でもいい、生活のためにやりたくないけどがんばるしかないでもいい、要は、与えられたことを本気で取り組めない人は、自分の好きな事、やりたいことなんて、見つかりっこない。

アインシュタインは、自分のやりたい事をやったのではなく、懸命にやりとおしたことで、やりたいことがあったことに、気付いたのだろう。