資本主義経済の進化は、“ 見えない価値 ”の最大化にある

資本主義経済の進化は、“ 見えない価値 ”の最大化にある

「お金」という “ 見える価値 ” をツールに「資本」をいかにして増やすか。ではなく、お金に変換される前の “ 見えない価値 ” により資本経済を進化させるかつてないパラダイムシフトはすでに始まっている。

資本の最大化を追求することが最も重要だというのが資本主義の在り方だ。

どれだけ人々が熱中して膨大な人達がサービスを利用してくれていても、それらが「お金」という形に換えられなければ資本主義経済では存在しないものとして扱われてしまう。

資本主義というのは本来、資本家が資本を集め、労働者を雇用することによって生産を増大させるための思想です。

資本を増やし、それを更に再投資することによって多くのモノを生産し、その成果が多くの人に分配されたから肯定されてきた。

「資本」とはなにか。

ここで「資本」とは何かについてもう一度考えてみましょう。

土地や資源、インフラ、人の労働力などの実体価値が資本の本質です。

しかし、土地も資源もこの地球上で永久的に増やす続けることはできるだろうか?

当然できません。土地も資源も有限です。するとどうなるか?

奪い合いです。有限である土地や資源という資本を奪い合うしかない。

そこで必要となるのが「お金」。お金を多く持った人が配分を多くし、実体資本所有していく考えです。

それがいつの間にか「資本=お金」となり、お金がないと何も買えないという幻想世界に浸ってしまった。

「お金は本来、資本ではない」。

お金はモノを交換するためのツールでしかないはずなのだ。

証券化がさらに進んで「証券を証券化する」手法まで開発されると、もう実体経済の消費とは関係ないところで、資本だけがぐるぐると回り続け、増殖し続けるようになる。

なぜ、資本は回り続けることによって増殖するのだろうか。

そこには、銀行の「信用創造」というカラクリが機能するからです。

信用創造は、社会全体の通貨量を増やすことによって、経済活動を円滑にするという役割を持っているのですが、お気づきのように、「実態としての資本」は増えていないが、名目上の資本だけが増えているということです。

本来価値を効率的にやりとりするための手段として生まれたお金は、この段階までくると、それ自体を増やすことが目的になってしまい、実体経済や人々の生活と全く関係ないところでお金だけがひとり歩きするようになっていった。

増やすのであれば実体資本、要するに土地、天然資源、インフラ、人の労働などですが、「証券市場」や「信用創造機能」により、土地も天然資源も全体で見れば基本的には増えていないのである。

もし仮にこの資本主義経済の発展を願うとするならば、資本という物質的なモノには限度があるため、経済を回し続ける事で名目上の資本を増やすことが正しいのかもしれません。

お金に変換される前の「価値」とは

しかし、その手段として、「お金を増やす」ことだけにしか価値がないのだろうか?

本来の資本経済の仕組みを忘れかけた私達は、どうやらいつのまにか大切な事を見落としているかもしれない。

それは、証券取引や、金融市場に携わっている一部の錬金術師だけではなく、一般市民にもいえることではないだろうか?

なぜなら、現金そのものを「価値あるもの」として捉えてしまっているということだ。

例えば1万円紙幣の現金。

1万円の現金は、1万円の価値がある。

つまり、私たちにとってわかりやすい「数値」で表した価値が紙幣です。

市場経済では、少ないモノほど価値は上がり、多いものほど価値は下がる。

また、需要と供給のバランスでもその価値は変わります。

それを数値化したものが、世にいう「お金」。

自分が欲しいモノを手に入れるにはどのくらいの数のお金が必要なのかがすぐにわかる。

お金は資本に変換できます。つまり、ここでいうお金という資本こそが「役に立つモノ」であって、有用性のあるわかりやすい価値であると。

現世界で利用できないものは、有用性として価値がないのか?

しかし、すでに気づいている。

既存の資本主義に多くの人が感じていたことは、

「お金にはならないけど価値のあるものが存在する?」

愛情・共感・興奮・好意・信頼など、実生活に役に立つわけではないが人にポジティブな効果を及ぼす「内面的な価値」

また、慈善活動やNPOによるボランティア活動など、個人ではなく社会全体の発展と持続性を高めるような「社会的な価値」

これらの「内面的な価値」と「社会的な価値」はいってみれば、目に見えない、数値化できないためわかりにくく、報酬に結び付きにくいため儲けにならない。

つまり、資本主義経済にとっての有用性・有益性ある価値はない。

「お金=資本」だと認識してしまっている限り、お金にならないは資本の増加にならない。

儲けの最大化こそが資本の増大である・・・と。

資本経済の進化は「価値の最大化」

しかし、こう考えてみてはどうだろうか?

現金や金融という「お金を最大化」させるのではなく、お金に変換される前の「価値を最大化」させるという考え。

従来の資本主義経済にある「有用性の価値」に加え、「内面的な価値」と「社会的な価値」にも焦点を当てる。

つまり、価値を最大化させた資本主義経済の進化系。

「お金を増やす=資本の拡大」という概念を捨て、ツールであるお金に変換される前の「お金にならない価値を最大化させる」という思想だ。

本来なら、人が感じる価値という源泉があるからこそ、その対価としてお金になるはずが、成果であるお金にばかり目を向け重要な点を見落としてしまった。

いや、本当は内面的な価値も、社会的な価値も往々に私たちは十分に感じている。

単に、有用性、有益性に関しては「お金」に軍配が上がっていたにすぎないのだろう。

これは、次のような例えにも通じる。

将来、何かやりたいことがあって勉強するために大学に行こうと受験勉強をしていたのに、偏差値を上げることに夢中になって何のために大学に行きたかったのかを忘れてしまう。

企業が発信するウェブコンテンツや企業ブログも、本来なら価値提供を第一とするはずが、量産する、毎日更新をすることが目的となってしまう。

資本主義の問題点は、まさに有用性のみを価値として認識して、「お金を増やして資本を増やす」事が目的となってしまっているようだ。

資本経済から価値経済へ

要は、お金にばかり焦点をあてないで、本当に価値あるモノを捉えなくてはいけないということです。

資本主義経済における資本に転換できる価値とは、お金という有用性な価値を指す一方で、他者からの共感・好意・信頼・注目のような人の内面的な価値による市場はすでにあります。

つまり、お金にならない価値に報酬が発生する仕組みに世の中がなったという事です。

その理由は、スマホが普及したことで万人が常時ネットに接続している状態になり、様々な内面的な反応が可視化できるようになった。

そして、SNSや動画配信などの価値提供により、今だかつてない「注目・興味・感心」をユーザーに与え、それにより感動そして、感謝となり、対価として報酬が発生する。

あらゆる「価値」を最大化しておけば、その価値をいつでもお金に変換することが可能となったのだ。

たとえば、SNSは今まで定量化できなかった「他者からの注目」という価値を数字に換算することを可能にしました。

多少極端な例ですが、貯金は0円でも、多くの人に注目されていてTwitterのフォロワーが100万人以上いる人であれば、事業を始めることは不可能ではない。

SNS上で仲間を集め、クラウドファンディングを通して資金を募り、わからないことがあればフォロワーに尋ねて知恵を借りることもできる。

「他者からの注目」という貨幣換算が難しい価値を、いつでも好きなタイミングで人、資本、そして情報という別の価値に転換することができるのです。

月間の利用者が1000万人以上いるが、売上は0円というアプリがあったとする。

このアプリを開発する企業は、たとえ売上が0でも数百億円の企業価値がつく可能性があります。

利用者数、すなわち「ユーザーの注目」という価値をこのアプリはすでに持っているので、“広告収入という形でそれをすぐにお金に換えることが可能”だからです。

ここでは、直接的な売上金額よりも月間利用者数の方が、この企業の価値を計算する上で重要な指標になっていることに気付くはずだ。

インターネットが誕生する前は、こういった信用や注目度を正確に数値化することが困難だった。

しかしネットの普及で様々な価値がデータとして認識されることで、それらのデータ自体が、まるで通貨のような働きをしはじめています。

私たちは、お金そのものを増やす事に目をくらませないで、目に見えない「内面的な価値」や「社会的な価値」を最大化しておけば、好きなタイミングで他の価値と交換ができるという今までにない社会で暮らしているということだ。

お金は価値を資本主義経済の中で使える形に変換したものに過ぎず、価値を媒介する1つの選択肢に過ぎない事に気付く事だ。