文章を「論理的」にする手っ取り早い方法

文章を「論理的」にする手っ取り早い方法

── 論理的とは、どんなもんですか?

そうだねー。じゃぁひとつやってみようか。

キミが「イケてるメンズ」だということを論理的に証明してみよう。
山田くん、キミの家の庭には、たしか「プール」があったよね?

── はい、あります。

ということは、キミの家の「庭」は広いということだ。

── はい、まぁまぁ広いです。

ということは、キミの家は「お金持ち」ということだ。

── はい、まぁまぁお金持ちです。

ということは、キミはお金持ちの家の「息子」ということだ。

── はい、まぁまぁ息子、やってます。

ということは、キミは男の子であり、「ホモ」ではないということだ。

── はい、まぁまぁ「ホモ」かもしれないけど、男子です。メンズです。

ほら、キミはイケてるメンズになっただろ?

論理的とはこういうことだよ。山田くん。

── なるほど~。

(そして、すごく感心をした山田くんは、さっそく友達の田山くんに論理的とは何かを教えてあげた。)

田山くん、論理的とはどんなもんかしってるよね?

── あまりよく分かってないかも。(← 田山くん)

いけないなぁ。よし、じゃぁひとつやってみようか。
田山くん、キミの家の庭には、「プール」はあるかい?

── いや、ないよ。

ということは、キミは「ホモ」ということだ。

「論理的である」必要性がある時とない時

さて、文章が読みやすいというものに、論理的である。ということがかんがえられます。

論理的とは、言葉からして、話の議論の内容が理にかなっている、もうすこしわかりやすくいうと、自分の説明や考え方などが、ちゃんと筋が通っていること。かな?

論理的ってきくと、どうしてもなんだか難しく考えてしまいます。

だけど、誰かと会話をするとき、特別論理的でなくてもちゃんと伝わるはずなんです。

たとえば、普段、友達とおしゃべりをするとき、僕らはことさら論理的であろうとはしない。

思いつくままにしゃべり、話題はあちこちに飛びまわり、最終的には「とにかくそういうことなんだよ!」、としめくくり相手の同意を取りつけたりしています。

会話においては、さほど論理的であることに気を使わずとも、ちゃんと相手に伝えることもできるし、なぜか、筋がとおっているようにもかんじてしまうことがある。

というのはも、おしゃべりをするときの僕らは「言葉以外」の要素を使ってコミュニケーションをとってるんですね。つまり、顔の表情、声の高さやテンポ、視線、身振り手振りなどを駆使しつつ、おしゃべりをしている。足りない言葉をサポートする道具がたくさんある。

だからこそ、いい加減で非論理的なおしゃべりでも自分の気持ちを伝えることができるし、相手を納得させられるのです。

こうした言葉以外の要素のことを、「非言語コミュニケーション」といいます。

非言語コミュニケーションとは、字のごとく言語に頼らないコミュニケーションを意味します。

他人との会話や、誰かに対する説明をするとき、表情や顔色、声のトーン、話す速度、ジェスチャー、視線などは、言葉以上に大きな役割を果たすため、話の内容をガッツリ論理的にしなくとも、ある程度「カバー」できちゃうんです。

ですが、文章は違う。

伝える道具は、「言葉」オンリーです。

たとえば、Eメールとか、手紙とか、言葉だけでやりとりする文章は、お互いの顔や身振りが見えないのはもちろん、どんな声なのかも聞こえません。笑うことも怒鳴ることもできず、沈黙することすら、できない。

普段のおしゃべりと比べたとき、意思の伝達に使えるカードが圧倒的に少ない(というか言葉しかない)わけです。

そこで先人たちは、感情を伝える補助手段をたくさん発明しました。たとえば感嘆符の「!」は驚きや強調を表す記号として使われていますし、疑問符の「?」は疑問を表す記号ですね。

あるいは日本語の場合、文末に(笑)をつけることによって話者が笑っていることを表したりもします。顔文字なんかも感情表現のツールでしょう。

(・ェ・。) ナルホドネ~

文章とは、これら急ごしらえの記号が必要なほど、感情と馴染みにくいツールであり、おしゃべりの延長にはなりえない伝達手段といえます。

つまり、言葉という道具オンリーで相手に伝える「言語コミュニケーション」は、やはり「論理的」であることが必要になってくるのです。言葉ロンリーでロンリが必要なのだ。

文章を手っ取り早く論理的にする方法

ですが、「もっと論理的に書け!」といっても、そんなに難しく考えたくないですよね。

文章を論理的にする方法は、深堀すればするほど難しくなり、専門的な文章術を一から勉強しようとしても、「その文章術に書かれている論理が理解できない」という、ニッチもサッチもいかない事になるのである。

そこで、手っ取り早く、文章を論理的にする方法をいいましょう。

ビックリしますよ。

知りたいですよね~

どうすれば簡単に論理的な文章が書けると思いますか~?

それは、「接続詞を意識する」です。

ね。ビックリするほど「なんだよそれ!」ってなったでしょう?

接続詞っていうのは、「しかし」とか、「つまり」「なので」「だが」など、文と文をつなぐ接着剤の役割を担うもの。

誰だって「当たり前」のように使ってるよね。

だけどね、この接続詞こそが、話の論理を支えてくれていることは、あまり気づいていないかもなんです。

接続詞は、接着剤ではなく、ナビゲーションなのです。道案内とか、車の方向指示器のようなものなんだよ。

たとえば、次の事例をご覧ください。

「僕は朝起きるのが苦手です。仕事に遅刻はしない。」

どうでしょうか?文章の意味がどうもつかめないと思いません? まったく論理的ではないですよね。ちゃんと論理的な文章にするならこうあるべきなのです。

「僕は朝起きるのが苦手です。(寝坊しそうになるのですが)仕事に遅刻はしない。」

これなら、話の筋がとおり、論理的な文章になったはずです。

では、これならどうですか?

「僕は朝起きるのが苦手です。【だけど】仕事に遅刻はしない。」

どうです? 接続詞の「だけど」を付け加えるだけで、ちゃんと伝わり論理的にはなったのではないでしょうか?

文章(文の連なり)が論理性をもって展開していくとき、そこにはかならず「接続詞」が隠されている。省略されていることはあっても、隠されています。

接続詞はどっちに曲がるかを伝える指示器なのだ

文と文に繋がりをもたせないと、読み手は迷子になってしまう。

知らない場所で道に迷うのは、右に曲がるのか左に曲がるのかを迷うから。だから、「右に曲がりますよ」というナビゲーションが必要なのです。

接続詞は、言葉と言葉、文と文、段落と段落とをつなげる役目を果たすことは誰もが知っていますが、話の道順を案内するナビゲーションをしてくれていることは気づきにくかったりします。

車で右折するのか左折するのかを、後車に伝えるための「方向指示器」のようなものです。

文章のを論理的にするというのは、話の筋道がちゃんとわかるということ。迷子にさせないという事なのです。

だけど、「文章の正しい書き方」的な、書籍とか、Webサイトでは、「接続詞は使いすぎるな」とか、「省略できるところは省略しろ」っていってます。ケッコーなドヤ顔でいってます。

しかしそれは、道案内せずとも迷子にならないのであれば、省略してください。という意味で、バシバシ省略してしまうと、話の論理はなくなってしまいかねません。

なので、僕はむしろ、バンバン接続詞を使ったほうが、話の論理は高まると思うのである。

とはいっても、極端な使い方はNGですよ。

たとえば、「僕は、(ちなみに)朝起きるのが(いわば)苦手です。(だけど)仕事に(しかしながら)遅刻はしない。」とか、こんな文章を書くことはないでしょうが、くどいナビゲーションウットオシイだけ。

文章を書いて、読み返してみた時、何となく違和感を感じるのであれば、隠れた「接続詞」が抜けてはいないかをチェックしてみて下さい。

以上をもちまして、文章を手っ取り早く「論理的にする」、ちょー簡単な方法でした。