「先入観」にとらわれてしまうもう一つの原因

「先入観」にとらわれてしまうもう一つの原因

人には少なからず固定観念や思い込みがある。先入観にとらわれて本質を見落とすことが少なくない。

知識や経験をもとに物事を判断するのは大事なことだが、先入観が強すぎると誤った判断につながる。

先入観に関する有名な話があります。

見た目は普通のプッシュ・プル型の何の変哲もない扉で、実はそれが横へ開閉する引き戸にもかかわらず、そこにドアノブをつけておきました。その扉を開けるのに子ども10人、大人10人で実験をしました。さて、それぞれ10名の平均時間はどれくらいかかったと思いますか?

子どもが約10秒、大人が約倍の20秒だった。

大人は良くも悪くも経験を積んでいることにより、頭の中に多くの引き出しを持っているが、その引き出しの中身が繰り返されるほど、同じデータが溜まって刷り込まれていく。

これこそが「先入観」であり、「固定観念」である所以だ。

それが正しいか正しくないかは別で、脳に対する繰り返しの刷り込みによって、「正しい」や「当たり前(普通)」と錯覚をして、固定観念や先入観になってしまうのです。

人には少なからず固定観念や思い込みがあり、先入観にとらわれて本質を見落とすことが少なくない。

知識や経験をもとに物事を判断するのは大事なことだが、先入観が強すぎると誤った判断につながるかもしれません。

先入観にとらわれてしまうのは、過去の経験や誰かに刷り込まれたことが原因で、「先入観にとらわれてはいけない」と思ってしまうが、果たしてそうだろうか?

もっと別の理由が要因となって、僕たちは固定観念や先入観にとらわれているのではないか。

「先入観を持つのは悪い」と思うのも一種の先入観

先入観という言葉によい印象を持っている人は少ないかもしれないが、実は普段の行動のほとんどに先入観が働いている。

先入観にはよい面もあれば悪い面もあるというのが本当のところだ。

例えば、部屋から外へ出るのに扉のノブをひねるという動作を無意識で行うが、その行動にも「ドアノブをひねったら扉が開く」という経験から学んだ先入観が影響している。もしも先入観が無かったら、毎日どうやって扉を開くか、そこから迷わなければならないのだから、先入観に助けられている部分は大きい。

もしも先入観が無かったら、毎日どうやって扉を開くか、そこから迷わなければならないのだから、先入観に助けられている部分は大きい。

僕たち人間の行動というのは、「習慣」と「動機」によるものがほとんどです。

部屋の外に出たいという「動機」があり、扉に付いたドアノブを回すか下げるかして、押すなり引くなりという先入観による動作を繰り返す。

その動作が無意識レベルで何のためらいもなく行動できるからこそ、やがては「習慣」となるわけです。

つまり、習慣をみにつけるには、どうしても先入観はなくてはならないことであり、一概に「先入観にとらわれてはいけない」と考えるのはおかしな話。

それこそ、「先入観にとらわれてはいけない」という刷り込みによる先入観だ。

冒頭で少し触れましたが、先入観にとらわれてしまうのは、過去の経験や誰かに刷り込まれたことが原因だといいました。おそらくほとんどの方がそうおもっているのではないだろうか?

しかし、先入観という刷り込みがなければ、まともに生活する事さえ難しくなり、「先入観を持つのは悪い」と決めつけるのはよくない。

にもかからわず、先入観にとらわれすぎると、やはり行動や考え方に制御がかかってしまうのも確かなこと。

そこで僕が気づいたことは、先入観にとらわれすぎてしまうことで、行動を制御してしまう原因は、「手段」が「目的」になってしまっているからではないかと思うのです。

「手段の目的化」による固定観念と先入観

Aという選択肢だけに捉われ、BとかCという選択肢があることに気づかない、もしくは、ひたすらAにこだわってしまうと目的を果たすことに時間がかかってしまったり、遠回りになってしまったり、最悪その目的が果たせないことさえありうる。

だからこそ、固定観念や先入観にとらわれすぎず、あらゆる手段を選び、選択しなくてはいけない。

だが、Aという手段そのものが、目的になってしまうと、Aという固定観念と先入観に捉われてしまう。

たとえば、小学生のころ、「前へならえ」と言われると何も考えることなく、前へならえをしましたよね。

現在でも前へならえは存在していて、その号令とともに幼き小学生達は迷うことなく前へならえをしています。

この「前へならえ(前にならえ?どっちでもええけど)」、よく考えてみると前の人にならって自分も同じことをする、という意味です。

それを何の迷いもなく小学生は前の人にならいます。

これっって、考えるとちょっとゾッとします。何も考えずに号令に従い、前に人と同じように、肘を曲げずにビシッと前に差出し、目線は前の人の後頭部あたりをジッと見つめろ、ということを小学生のうちから刷り込まれていることになる。

小学生にしてみれば、ただ腕がダルいとか、前の人を突き刺そうとしたり、「コイツの髪の毛、フケ多いなー」とかしかなくて、前にならえの本当の目的なんて知ってるわけがなく、ただ、号令にしたがう、みんなしてるから腕がだるくてもしなくちゃいけない、と思い込み、前にならえのポーズをすることだけが、目的としか思ってないわけ。

「前にならえ」の本来の目的は、目測力を養うことが目的だとされています。

僕たちは、スーパーのレジで並ぶとき、行列に並ぶときとか、無意識のうちに「間隔」をとりながら並んでいます。それが「目測」です。

子供にはまだ適切な間隔をつかむ能力が低いため、前にならえ、という「手段」を用いて、その間隔を感覚的にとれるようになることが、本来の「目的」です。

だが、子供達は、手を前に突き出すポーズをとり、「言われた通りにする」ことだったり、「みんなと同じようにする」ということが、「目的」だと思い込んでしまう。

「手段が目的化してしまう」こんな話があります。

宇宙開発をめぐって、アメリカとロシアが覇権争いを繰り広げていたころ、その当時の大きな課題の一つが、宇宙空間ではボールペンが使えないということだった。

重力の関係でインクが下に落ちてこなかったからです。この課題を解決すべく、アメリカのNASAは数億円の開発費をかけて、宇宙空間でも使えるボールペンを開発しました。

さすがはNASA、スケールが違う。

しかしそれ以上に一枚上手だったのがロシア。この課題に対してどんな対策をして解決したのか。

「えんぴつ」を使った。

完全に先入観に捉われすぎたNASAは、ボールペンで字を書く、という「手段」が先入観となり、固定観念に捉われてしまっています。

本来は、宇宙空間だろうがどこだろうが、「字を書く」ことが目的であるはずなのに、「宇宙空間で書けるボールペンで」という手段が目的になってしまったのです。

解決すべき問題の本質はなんなのかということ。

アメリカのNASAが考えたのは、どうやったら宇宙空間でも書けるボールペンが作れるのかということ。それに対してロシアが考えたのは、どうやったら宇宙空間でもものを書けるのかということ。

本質の解決という視点ではロシアに軍配が上がるよね。

これと同じようなことが僕たちの生活においても多々ある。手段の目的化というものが。

「現実」は必ずしも「真実」ではない

今流行だから、自分もやろう、あの人はコレで成功したから自分もしよう。

その流行モノや、成功したコトは、もしかすると「手段」にすぎないのではないですか?

本当の目的は何かを、ジッと考えてみて下さい。

株でもうけた、ユーチューブで100万登録者数になった、ブログでバスった、ツイッターで、フェイスブックで・・・

これらはすべて、「手段」であり、その先にある「目的」ではないはず。

手段が目的になってしまうと、流行ものは遅かれ早かれ、いつかは低迷し、やがては消え去る運命にあるのは確かなコト。

そのとき、失うのは、目指していた「目的」です。

手段が目的になってしまった、「ゴール」という夢を諦めなくてはいけない現実が訪れるだけ。

僕たちは、手段や、一時の流行のツールにとらわれすぎてはいけない、それが、固定観念となり、今後の先入観として、束縛されながらの人生をおくることになってしまいかねない。

大切なのは、魚と「釣る」のではなく、「釣り方」をしっかりと身に付けることです。

「先入観は真実を見落とす」という言葉がありますが、あなたは「太陽は東から昇る」に関して、どのように思いますか?

これは、「現実」であって「真実」ではない。

毎日の繰り返しの中から当たり前のように「思い込んでしまっている現実」ですが、「真実」は地球自体が自転を繰り返しながら太陽の周りを回っている。

成功している方は、東から登っているように思える現実をみてしまうが、じつは、自転を繰り返しながら太陽の周りを回っている真実があるのです。

東から登るという思い込みが固定観念になると、その手段は、あなたの目的になってしまう。

そんな先入観は、一時の手段なんですよ。ホントは。

だから、自分自身の目的をシッカリと確認し、今やるべきことは何かを見落とさないようにし、あなた自身の市場価値を構築し、会社人だろうが、フリーだろうが、どこでも通用する、芯のある人になろう。