上手な叱り方よりも “ 怒られた時の対応スキル ” をコッソリ伝えよう

サボってばかりいる部下、理不尽すぎる上司の発言、能天気な同僚、何度言っても言う事を聞かない子供・・・。
気が付けば、あなたの周りには「怒り」を誘う要因に溢れている。思わずカッとなって、怒りが爆発しそうになったことはありませんか?
そりゃあ、あるでしょう。それも頻繁に。怒りの感情は、いつどんな時に襲ってくるか分かりません。
その瞬間は冷静になれず、まともに怒りをぶつけると少し時間が経ってから「しまった、いいすぎたかも…」と後悔してしまう。
人には心があれば感情もあり、ときに瞬間的に暴走してしまうこともあります。
それでも「怒り」で自分や周りが傷つくのはだけはさけたい。と思うのが心情だと思います。
「怒り」とは、“ 第二の感情 ”です
さて、抑えきれないあなたの「怒り」。
本題に入る前に、「怒り」とは“ 二次的な感情である ” という事を、先に説明させてください。
怒りは、突然自身に降りてくるものだと感じてしまいますが、実は「第二の感情」なのだ。
怒りの前の「第一の感情」があり、その後「怒り」という二次的な感情になって現れるのです。
例えば、こういう事です。
子供が不意に道路跳び出して車にひかれそうになった時、「危ないでしょ!」といって叱ったとしましょう。
この際、叱った人には「怒り」の感情を顕(あらわ)にしています。
ですが、怒りの感情の心底には、「車に引かれたりしたらツラい」「万が一の事もあるから心配」「悲しい思いだけはしたくない、しさせたくない」
といった、ネガティブな「不安や寂しさ、心配、絶望感など」という一次感情が隠されているのです。
つまり、怒りは二次的な第二の感情であり、本来の感情ではないということです。
大半の人はこの隠された一次感情の存在に気付かないがために、怒りの感情をコントロールできないのです。
怒りの感情というモノは実はあっという間に消えてしまう性質があるため、あとから「少しいいすぎたかも・・・」とか、「何をこんなに感情的になっているんだ私・・・」という後悔がのこり、元々隠されている不安や心配といった一次感情は消せないまま心に居続けるのです。
本来ならば、不安・寂しさ・心配といった要素を解決し、ネガティブな一次感情をコントロールしなくてはいけないのです。
瞬間的に沸きたつ怒りという第二の感情が、じわじわと表にでてくる一次感情をそっちのけにして、先にでてしまうもの。
ですから、「怒り」とは、心の奥底にある本来の不安や心配感情に「怒りの仮面」をかぶったものだということを知っておきましょう。
怒りの感情をどう処理するべきかについては、今回のテーマから外れてしまうので、日を新ためてご紹介できればと思っております。
さて、怒りとは不安感情が仮装した「怒りのコスプレ」であることを理解して頂いたところで、本題に入りましょう。
それでもあなたは、「叱る」と「怒る」は違うといいますか?
職場での部下の指導、子供の教育の一環として、「怒る」「叱る」など叱責せざるえないシーンは必ずあります。
指導方法や、教育の仕方に少し知識がある人は、大抵こういいます。
「怒る」と「叱る」は違う ─── 。
特に、指導本などに記されている色んな文献や資料、意見などを読みあさってみると、「怒る」と「叱る」は別だ、と教えているものが多い。
「怒る」とは、相手が自分に悪い影響を与えたり、自分が指示したとおりに動いてくれなかったりした場合に、腹をたてたことを相手にぶつける行為をいう。
一方、「叱る」は、相手が自分を含めて誰かに悪い影響を与えたり、自分が指示したとおりに動いてくれなかったとき、相手をより良くしようとする注意やアドバイスを、あえて声を荒げたり語気を強めたりして相手に伝える行為である。
もう少しおしなべた言い方をしてみると、「自分のために怒る」「相手のために叱る」というものです。
なるほど、確かに理屈的には正しい区別の言い分です。
「怒る」の表現は、いかにも怒りをあらわとするが、「叱る」の表現は、指導的な柔軟さを感じます。
しかし、実際、怒られた側、叱られた側にとって、それが、「怒られてたのか」それとも「叱られた」のかなん区別ができますか?
できません。むしろ子供が、「僕は今、僕のために叱られたのだ。つまり、叱られたように思えるが実は褒められるための準備にすぎないのだろう。」
な~んて、冷静な判断を下せる子がどれだけいようか。少しくらいはヘコんででくれとさえ思ってしまいます。
次のようなことに例えてみましょう。
あなたの目の前に突然、ある人から銃を突き付けられました。当然、自分の命が危ないということに恐怖を感じるはずです。
しかし実は、相手の拳銃には「弾丸」は入っていません。「ドッキリ」とでもいいましょうか?ただの空弾を向けられたにすぎません。
しかし、いきなり銃をむけられたあなたは、空弾であろうと、弾丸入りの本物の拳銃であろうと、「恐怖」を感じます。なぜなら、向けられた拳銃が空弾であることを知らないからです。
この時、銃を向けた人からすれば、あなたを「撃ちおとしてやろう」ではなく、「驚かしてやろう」です。
だが、そんなことをしらないあなたは、「これはもしかしたらドッキリかもしれない・・」などと冷静沈着な判断ができる余裕はそうないはずです。
つまり、こういう事です。
弾丸入りの銃=「怒る」
空弾の銃 =「叱る」
「怒る」と「叱る」は、弾入りと空弾の違いと同じで、受け手からしてみれば、どちらも同じ感情を被るのです。
教育や指導にあたり、「怒ってはダメ、叱るべきだ」というのは言葉の綾(あや)にすぎません。自分が相手のためを思って「叱った」としても相手にそれを理解してもらうことはできないのです。
「叱る」行為は、「怒らないだけの怒る」行為と同じです
人は感情の生き物ですから、「怒るな」と言われても難しいものです。
実際のところ、現場の叱責は大抵、感情に任せて「怒って」いませんか?
部下が教えて通りにしない時、子供が暴れて騒ぎ立てている時、「イラッ」と感情的になり、怒りが先行しているはずです。
教育や指導を従事する立場にある人は、「怒ってはいけない」だけを頭で思い込んでしまっている人もいます。
ここで、よく考えてみよう。
「感情的に怒る」指導
「怒らないだけ」の指導
2つの指導法は一見、正反対の行為に思えます。
しかし、その目的が「指導」だとすれば、どちらも同じ「ダメな指導」に値する。
前者の「感情的に怒る」行為は、怒る側の怒りを相手にぶつけるだけだとすればそれは指導とはいえません。
一方、後者の「怒らないだけ」の行為はどうか?
例えば、いう事を聞かない部下に対して、「いい加減にしろ!○○はこうしろといっただろ!」ではなく、
「○○さん、こうしてください。」
「以前にもいいましたが、こうしてください。」
「またですか?こういう時はこうするべきです。」
怒りの感情はなく、冷静に優しく叱っていますが、なんとなくイヤミったらしくも聞こえます。
先に説明したとおり、感情的にならずに優しく叱ってるつもりでも、対象者にしてみれば、同じ受け取り方をするものです。
それに、「こうしてください」「こうするべきです」など、丁寧に指導しているつもりですが、その場その場で「指示」しているだけともいえます。
相手は、言われるがままに動いているだけであって、本人の、「あらためなくては」という意識の改善はありません。
多少なりとも、「怒られてしまった」というヘコみ感情を伴わなくては、反省という気づき感情のスイッチがオンにならないのです。
怒る時は “ ちゃんと ” 怒ってあげよう
ここで、指導とは何が目的なのか?
例えば、職場の部下の指導であるなら、その職場で持つべき理念・判断力等を持たせ、意識して仕事に取り組めるように成長させること。とかでしょう。
要は、部下である本人がその意味を理解し、意識を改めるように仕向けることでしょう。
しかし、指導を「自分の言うことを聞かせることを目的」にしてしまっているのではなかろうか。実際このタイプの人は結構います。
職場の指導にしろ、子供の教育にしろ、「怒る」「叱る」は一種の手段であって、目的ではありません。
本人の行動を改善させることであり、できれば意識改善してもらうことが本来の目的なのです。
もう一度言いますが、ときに「怒る」事はあります。「怒らないといけない時」は当然のようにある。
怒られる側の心境ばかりに目を向け、「怒ってはいけない」と誓いを立ててしまうと、そこにはおもわぬ「落とし穴」もあるのです。
例えばもし指導者が、部下や子供の過ちを、何があっても怒らなかったらどうなるか?
反省しようという意識をおろそかにして再び同じ過ちや失敗を起こしかねません。
その過ちや失敗事がこれまでは「ヒヤッ」とさせられる程度で済んでいたかもしれないが、次こそは、大きなトラブルに発展したり、大事故を招いてしまう事も十分にあるのです。
車の事故も、刑事罰になるほどのしてはいけない行為も、全ては怒らずに見過ごしてきた軽率さが要因なのです。
なので、前兆段階の時に、ちゃんと怒って、無理にでも本人の行動を改めさせないと、結局は、本人自身が嫌な思いしたり、心も体も傷つく羽目になってしまうのです。
「怒らないでやさしくする」よりも、「怒ることでその人を救う」ことが、指導であり、親切さなのだ。それがたとえ、本人に気付いてもらわなくても、親切に怒らなくてはならない。
指導、教育、育児とは、それほどの覚悟と信念をもつことなのだろう。
それに、怒りがこみ上げてくるということは、怒る側の人を守るための「防御本能」であり自然なことなのです。
「怒ることはいけないことだ」と怒りを押し殺しているうちに、心の奥底でコンクリートのように硬く冷たく固まってしまうことがある。
それが知らないうちに感性をねじ曲げ、やがて怒りは臨界点を超えてしまった時に「攻撃」となって爆発してしまいます。
その攻撃が他人に向かえば取り返しの付かないトラブルとなり、自分自身に向かえば精神的に追い詰められ、心が崩壊してしまうことすらあるのです。
自分自身を大切にしたいという気持ちはとても重要。
なぜなら、自分を大切にできない人は、他人を大切にできるはずがないからです。まずは、自分から。その気持ちが悪いものであるはずがありません。
とはいっても、「怒る」と「叱る」の言葉の定義にあるように、その区別を相手側に与えることは必要です。
感情に任せて、ヒステリックな怒りを単にぶつけてしまうと、言われた側にとって「恐怖」しか記憶にのこりません。
「お前は本当にダメなやつだ」とか、「なんでこんな事ができないんだ」など、人格を否定するような怒り方はNGです。
そこら辺の区別がわからない?
そんな方は、先に説明した「怒りは第二の感情である」ということを思い出してください、
怒りをこみ上げているあなたは、不安や悲しみといった本来の第一の感情が隠されています。
その、本質的な感情を素直に伝えればいいのです。「怒る」にしろ、「叱る」にしろ、第一の感情である「不安」や「心配」という感情を言葉に表道路に、素直に表現し伝えるのです。
例えば、先ほどの「子供が道路に飛び出した」ことに怒りを感じてしまったら、ただ単に「ないやってんだ!あぶないだろ!気をつけろ!」と、怒りをむき出しに言うのではなく、
「もう!驚かせないでよ!車に引かれたりしたら(お母さん)悲しいよ、寂しいよ。もうこれからは飛び出さないでね!」というように、あなた自身の感情を率直に伝えよう。
その素直な気持ちは、相手にちゃんと伝わります。「あぁ、本当に心配しているのだなぁ・・」と、本人の改めようとする感情を揺さぶり、怒られた本人が逆に、怒った人の感情を労わろうという気持ちが働くのです。
「叱り方」よりも、「怒られた時の対応の仕方」を伝授しよう
さて、怒る事、叱る事が大切だということを理解して頂いたと思います。
ですが、怒って行動を改めさせることとは別に、まだ、大切なこと伝えなくてはなりません。
それは、怒られた時の辛い「ヘコみの感情」をどうするかです。
子供は怒られるにしろ、叱られるにしろ、真っ先に反省するわけではなく、「怖さ」を感じます。
そして、「僕(わたし)が悪いんだ」と思ってしまう事が多く、少なからずともヘコみます。子供は自分の感情をどうコントロールしていいかまだわかりません。
怒られたとこの辛さや悲しみをまともに受け止め、いつまでも消さない記憶として深く根強いてしまうこともあります。
たとえば、片づけをしなかった時、大人は、「片づけをしなくてはいけません。」「片づけをしないと踏んづけて怪我するよ」、など片付けることの大切さを指導します。
それはそれでいいんですが、叱られた子供にとって本当にどうにかしたいのは、 “ 叱られた時の心のヘコみをどう処理すればいいのか ” をひとりで迷っているのです。
脳内の扁桃体で感じる辛くて悲しい感情をどうすればいいのか、どう対応すればいいのか。そんな事さえ思いつくことができず、ただ怖かった、ただ悲しい、ただ辛い、怒られて悪いことをしたんだと思うだけで、怒られた時はこう考えよう、こう受け止めよう、気にしないで前向きに考えようなど知る由もあるわけないのです。
しかし、時間とともにそのヘコんだ感情もすっかり忘れ、いつの間にかあっけらかんと立ち直っているのは、他に楽しいことがあったり、夢中になれることに気がいき、怒られたことなんてすっかりどこかへいってしまう。すぐに興味深々になる子供ならではの特権ともいえます。
本来なら、そうやって立ち直りながらおおきくなっていくものかもしれないのですが、コトによっては時間でさえも解決しきれないことがあります。
怒られてヘコんでしまっても、「いずれ忘れるだろう」は、必ずしも根本的な解決にはなっていないのです。とりあえず記憶の片隅に寄せて置いただけなのです。
怒り方や叱り方を問うことも非常に大切な事ですが、「怒られた時、どう対応するべきなのか」を伝え、その子自身が、“ 怒られてもすぐに立ち直れる強い子 ” にしてあげることも同時に教えてあげるべきなのです。
怒られた経験から目を背けるのではなく、しっかりと向き合い、そして「僕は(わたしは)、怒られた時はこう受け止めるのだ!」という強いスキルを身に着けていく事が、やがて大人になった時の糧となるのだ。
ですが、「怒られた時はこう考えるといいよ」などを子供に伝える大人があまりいないのは、大人自身が怒られた時の対応の仕方を知らずに迷い続けているのかもしれません。
あなた(大人の方)だったら、叱られたり怒られたりした時の対処法や、「私なりの立ち直り方」などの心の処理方法にはどんなスキルをもっているだろうか?
今までどうやって、乗りこえてきたのかをよく思い出してみよう。必ず、あなたなりの対処法があったはずです。
怒られたとき、まずは「誰かに相談する」ということをちゃんと教えて、プラスアルファとして、「好きな事をして気分転換をする」とか、「とにかく大声であやまり倒す!」「ひたすらに、ご指導ありがとうございます!」などでその場を凌ぐとか、「怒られたことが悔しい!」で、絶対次は怒られないと決め、次につなげる前向きの捉える人もいるでしょう。
また、「怒った本人も気にしているに違いない。自分は前向きにしていよう」と、逆に怒っている人を気遣ってつらい気持ちを反転させてしまう強者もいることでだろう。
なんでもいいのです。今なら笑えてしまいそうなエピソードならなおさらいいんです。あなたの経験とスキルを率直に伝えることが子供達にとって “ 同じ目線にたってもらえた ” と感じれくれるのです。
ただし、「私はこうするからあなたもこうしなさい」と強要してはいけません。何気に参考程度のサラッと伝えるのがコツだったりするのです。
なぜなら、子供には「怒られた時、自分でどうにかして気にしないでいられるようにしないといけないんだ」という抽象的に気付いてもらえればいいのです。
実際私も、これまでいろんなことで怒られたり叱られたりしてきましたが、そんな時、「怒られたことなんて気にしない」とか、「怒られることがわかってるんだからその前に処理しておくのは当然じゃね?」などなど、いろんな人たちの、それぞれの処理の仕方に関する記憶は今でも覚えています。
誰だって叱る事も起こる事もあります。叱るべき時はちゃんと叱らないといけないわけです。
そんな時、傷つけないように叱るにはどうすればいいか、とか、この子は叱ってもムダなので褒めてその気にさせるのがいい、とか、「上手な叱り方」をどうこう考えても、
実際社会にでてみれば、理不尽としか言いようのない怒り方をする人もいる、怒るそぶりを見せないで嫌がらせをしてくる奴もいる、やさしい言い方で叱ってくれてはいるがグサッとくる言い方しかできない残念な人もいるのです。
周りの人達全てが、叱り上手なわけがない。むしろ、感情むきだしで相手の事なんて二の次としか思えないような叱り方しかできない人の方が圧倒的に多いのが実際の現実社会なのだ。
子供も大人も、私たちは、怒られてもヘコまなくなる “ 怒られ対応力 ” を自分なりに身につけることの方が本当は大切なのです。