「なりたい自分」と刷り込まれた「なるべき自分」

「なりたい自分」と刷り込まれた「なるべき自分」

時に、自分の価値観だと思っていることが実は、他人から刷り込まれた価値感だったりもする。

自分のモノサシで考えていると思いながら、本当は他人から与えられたモノサシで考えている。

「~したい」「~でありたい」「~するべき」など、これが重要、これは重要でない、そんな自分自身の判断基準さえも、他者からインプットされている。

心の奥底でいつもモヤモヤ感がある、正しいと思ってやっていることになぜか違和感を感じる事がある。

世間で流行っていること、みんながしていることに、どうも価値を感じない。「イマドキは○○」というモノに何の興味も持てない。

あなたが覚えるその有耶無耶は、もしかすると、「なりたい自分」ではなく、「なるべき自分」に操られているかもしれません。

満たされない心のモヤモヤ感や違和感は何?

自分がやりたいこと、望んでいる事、その判断基準は自身が感じる価値感によって決定されます。自分に価値を感じないことには興味もわかないし、それに携わりたいとも思わないでしょう。

そして、その価値感は一人ひとり異なり、他人と自分の価値観は違う。そこに異論はないはずです。

しかし、あなたのその価値感のほとんどが、他人から刷り込まれた価値感です。といわれると、若干「イラッ」としますか?

わかります。自分の信じている価値観で「自分はこうあるべき」だと確信し、「いずれ自分はこうなりたい」と目標を掲げて日々を慢心されていることでしょう。

そこになんの誤りはありません。ですが、少しばかり意地悪な言い方をさせてください。

あなたの価値観は、環境やこれまで見てきたこと、聞いてきたこと、教わったことなど、他人から刷り込まれたことであることが真実。

子供の頃、「宇宙飛行士になりたい」「歌手になりたい」「電車の運転手にないたい」と思っていたことは、幼き子供ながらの価値観だった。

しかし、大人へと成長するに従い、徐々にそんなことは到底慣れそうにないと気づき始めてきます。なぜでしょう?

思考力がついて現実的な考え方ができるようになったから?それとも、そこまで望んでいない事だったから?

それとも、親や先生から「なれるわけないだろ!」と強引にいい込められたから?

どれも違います。あなた自身が考え方を変えたわけではなく、親や先生から強制的に排除させられたわけではない。

時代の風潮や世情のトレンド、社会環境が作った「~はこうあるべき」「~とはこういうものだ」などの常識論を浴びせかけられ、あたかもそれが重要だと刷り込まれてからだ。

刷り込まれた価値感で他人が作ったレールの上を走るのか?

では尋ねます。あなたが思う、今欲しいものや、こうなりたい事は何ですか?

例えば、サラリーマンの人だったら、同期の中で一番早く出世したい、いつかは会社を辞めて起業したい、会社を起ち上げたい、田舎でのんびり暮らしたい、人から尊敬されたい、メディアに取り上げられるなど一躍有名になりたい・・・

もし仮にこのような理想をお望みとしているのなら、なぜそれを欲しいと思ったのだろうか?そのキッカケはいつどこで、そう思えるようになったのでしょうか?

よ~く考えてみて下さい。本当に欲しかったのは「それ」ですか?

テレビや雑誌を見ていいと思ったとか、他人を見てうらやましくなったなどの理由ではないでしょうか。

それを「欲しい」という気持ちは、やっぱり他者から刺激され、与えられたのではないでしょうか?

ということは、「あなた自身」が「欲しい」と思ったわけではないのです。理想とする自分のイメージが、例えば「経営者」だった場合、雑誌やテレビに登場する経営者を見て、「経営者ってかっこいい」と刷り込まれてきた結果ではないだろうか?

或いは、ライバルや友人が起業したのを横目に見て、「自分も頑張るぞ!」と思ったのだとしても、「起業することが偉いこと」「他人が頑張っているから自分も頑張らないといけない」という考え自体が刷り込み。

経営者と平社員の間に、偉いとか偉くないの優劣はありません。「~は偉い」という優劣や区別そのものが刷り込まれたことなのです。

自己啓発セミナーや、そういった書籍の中で、「自分の欲しいものを書きだそう」という事が言われたりします。

そこに書き込む内容は、人それぞれ全く異なる事を書くでしょうか?私が知る限りでは、ほとんどが、同じような事を書く傾向にあるのではないでしょうか?

なぜ、「欲しいもの」「理想のイメージ」を聞くと、同じような答えが並ぶのだろうか?

その人達自身が出した答えではなく、それは他人やメディアから刷り込まれてきたモノサシをもとに答えるから誰もが同じような事を書き込む結果となっているのではないですか?

つまり人は、他人からの刷り込みで、他人と同じものを求め、他人と同じ人生を生きようとしている。大半の人はそのことに気づいていないのかもしれません。

本音にフタをしてしまっているのでは?

先ほど、「会社を起ち上げたい」「経営者になりたい」という事例を挙げましたが、そんなことを望む事がよくないとか、あなたにそんな資格は到底ないなどと言っているわけではありません。

そこはどうか勘違いしないでください。

ただ、あなたの思う「なりたい自分」は本物かどうか?それは本音にフタをしてしまってはいないか?という事です。

もっと偉くなって、もっと裕福になって、いいクルマに乗り、いい服を着て、みんなからチヤホヤされたい、尊敬されたい、雑誌に載りたい、テレビに出演したい、自由が欲しい・・・。

みんながうらやましがる物を持ち、みんながうらやましがる地位を得て、思いっきりみんなからチヤホヤされたい……。それが本音だったりしたりしませんか?

「起業したい」や「経営者になりたい」は、その本音を象徴するアイテムにすぎない。「みんなから思いっきりチヤホヤされたい」という本音が自分の「理想像」だなどとは認めたくないから、なりたい事を紙に書きましょうと言われた時、ていよく「起業する」や「会社を興す」などを書いて、かっこ悪い自分の本音にフタをして、恥じらいを隠そうとしている。

少し言い過ぎになってしまったかもしれません。

しかし、ここでいいたいのは、世間が刷り込もうとしている時代の価値観や一般論は、「なりたい自分」ではなく、「なるべき自分」になろうとしている可能性が高いかもしれない。

毎日、懸命に頑張っていても、心の奥底でいつもモヤモヤ感がある、正しいと思ってやっていることになぜか違和感を感じる事がある。

そんなことをうすうすと思う事があるならば、刷り込まれた自分がそこにいないかどうかを疑ってみるのも時には必要ではないだろうか?

イノベーションというのは、常に「これまで当たり前だったことが当たり前でなくなる」という側面を含んでいる。

これまで当たり前だったこと、つまり常識が疑われることで初めてイノベーションは生み出されます。

ただ、間違ってはいけないのは、「常識を疑え」という一方的な偏った考えは持たない事です。それこそ、世間的にいわれている「常識は疑うモノ」という常識が刷り込まれていることになってしまします。

大切なのは、「常識への疑問」。

自分の持っている知識と目の前の現実を比べてみて、普遍性がより低い常識、つまり「いま、ここだけで通用している常識」を浮き上がらせる思考を持つことが時には必要なのではないでしょうか。