「何かを得れば何かを失う」という「何か」を紐解いてみました

「何かを得れば、何かを失う」
何かを手に入れたいなら、何かを手放さなくてはいけない。
いつしかこんなことをどこかで聞いたか、あるいは見たことはあるでしょう。
あなたはこのことを信じるだろうか?
信じるとか信じないとかの問題じゃないかもれませんが、新たに何かを手に入れると、何かを必ず失っているような気がすることってありませんか?
何かを手に入れるの「何か」は、ハッキリと分かるんだけど、失っているものはわかりずらくて後から気づけば「大切なこと」を失っていた、ということがある。
だから、僕は、この事を信じるか信じないかを問うのではなく、どういったことが見え隠れしているのかを、知っておいた方がいいと思うんです。
ちなみに僕は、「何かを得れば、何かを失う」というのは、確かにあると思う。
というのも、分かりやすいことでいえば、いろいろありそうだ。
ギャンブルで大当たりしたが、それまでに多くの時間と金銭を失う。
仕事ばかりをしていると、家族と過ごす時間は減ってしまう。
物を買う時は、それに見合った代価を支払う。
・・・・
考えてみれば大体が、何かを得る時、必ず何かを失う仕組みにはなっている。
上記のような事例は、すごくわかりやすくて、何を失うのかは、何かを得る前に気づきそうですよね。
だけど、厄介なのは、何を失っているのかを「気づかないこと」があるんです。
その「何か」とはなんなのか。本当に失っていると解釈してしまっていいのだろうか。
「たった一つの何か」を得ることは、「無数の何か」を失うこと
たとえば、コンビニで「水」を買った時、お金を払います。
このとき、得たものは「水」で、失ったものは「お金」だと思いますか?
「水」がほしいんだったら「お金」が必要ってなりそうですが、僕は違うんじゃないかと思ったりもする。
というもの、「水」を買う時ってのは、のどが渇いていた時とか、そのたもろもろの理由があり、「水」という品物がたまたま必要だった、と考えます。
単純に、のどが渇いていたから「水」を買ったのであるなら、
得たものは「のどの渇きをいやせた」という満足感を得ることができた、ということになる。
じゃぁ、失ったものは何だと思いますか?
「お金」ですか?
たしかに、代価としてお金を支払ったのは事実ではあるけど、「水」だったら他の誰かにもらうこともあるし、水道の水でも「のどの渇きをいやせた」という満足感を得ることができます。
だから、お金というのは、何かを得るための一つの手段にすぎない。
だとすると、失ったものは「何か」という話になります。
そこで、思ったのが、何かを得るというのが、仮に「満足感」だとします。
先ほどの例でいうと、「のどの渇きをいやしたい」という満足感。
その満足感を得るために、失うものは3つあると思う。
それは、「状況(環境)」「支援」「欲望」。
のどが渇いているとき、その、のどの渇きをいやすための「水」がない状況ですが、水を得ることができた時点で、のどの渇きをいやせるものがない、という「状況」または、「環境」を失う。
のどの渇きをいやすための「水」を提供してくれるコンビニというお店、定員、突き詰めるとそれを作ってくれた工場の人とかによる「支援」は、水を与えてくれた時点でその役目は終えます。
そして、のどが渇いていたという自分の「欲望」は、水を飲むことでなくなります。
水を得るということは、水がないという「状況(環境)」を失い、水を提供してくれる「支援」を失い、水が飲みたいという「欲望」を同時に失う。
水というたった一つの物を得るために、じつは無数の失うことが潜んでいるということ。
さらに、突き詰めてみると、失うことは3つどころじゃありません。
コンビニにいくための「労力」や「時間」、のどの渇きをいやすためにどうすればいいかといった自分の「思考」や、代価としてはらった「お金」なども、水を得た時点で同時に失うことになります。
僕たちは、何かを得ることにばかりに意識が向いてしまいますが、その背景には、気づかない無数の何かが失われている。
そう考えると、「何かを得れば、何かを失う」ということは否定のしようがない。
「失う」という解釈で済ませてしまうと「失ったまま」で終わる
だけど、ここまで紐解いてしまうと、なんだか、何かを得ると、いろんなことを失ってしまう、というネガティブな印象が強くなってしまうよね。
それにいちいち、何かを得るために何が失われるんだろうかと恐れていては、得たいものも得ることができなくなってしまいます。
ではもう一度、「何かを得れば、何かを失う」ということを分解してみます。
何かを得る = 欲望
何かを失う=環境(状況)・支援・欲望
このように、「得る」ということは、それ以上に「失う」ことがある。
これは確かなことではあるが、「失う」という考えではなく、もっとポシティブな考え方に置きかえる事も出来そうです。
「環境(状況)」を失うのではなく、新たなステージが変わる「チャンス」だということ。
「支援」を失うのではなく、これまで手助けしてくれた人達に「感謝」できるということ。
「欲望」を失うのではなく、願いが叶ったことで、他の誰かに「支援(手助け)」ができるということ。
つまり、失うというネガティブな捉え方を、ポシティブなことに解釈するためには、忘れてはいけないことがあるということ。
何かを得るということは、人に貢献できることを可能とするが、その背景に潜んでいる「環境の変化によるチャンス」を見逃さないようにするということ。
何かを得るために、助けてもらった人の支援や協力に「感謝」する事を忘れてはいけないということ。
そして、欲望や希望の願いが叶ったとき、自分だけが満足して終わるのではなく、他の誰かを「支援(手助け)」できるようになったということを忘れてはいけないと思う。
つまり、何かを失うという解釈は、何かしらの「使命」が与えられ、人に役立つことができる「貢献力」が得られるという捉えかたができる。
何かを得ることは何かを失うことではあるが、それは、他のだれかに役立つことができることで、自己肯定感が高まり、今までできそうになかった新たな「貢献」ができるようになるということなんです。
夢や目的を叶えたときの「得る」こと「失う」こと
あなたは何か自分の「夢」を叶えたいと思っているとしたら、やはり無数の失うことがあるでしょう。
その夢が叶ったとき、気づけば知らないうちに大切なことを失っていた、ということがありませんか?
それは、新たな環境や、おかされた状況という新たなステージが変わる「チャンス」だとを受け入れることができなければ、今までの慣れ親しんだ環境でいたいという「安堵感」を失ったと思ってしまうでしょう。
夢を叶えるために、これまでにいろいろと手助けしてもらった人の支援や協力に「感謝」することをしなければ、友人や家族、先輩、親族などのこれまでの間柄に歪が生じ、親しい関係を失ってしまったと思ってしまうかもしれません。
夢が叶ったからといって、自分だけが満足し、それを他の誰かのために役に立てようという「貢献」がなければ、あなたが手に入れたその夢は、ただの身を守るための「防具」だったり、誰かに勝つための「武器」になってしまう。
自分の地位や名誉を守るための「防具」になると、自分のみを守ることはできるが、他の誰かを守る事はできません。
他者に勝つための「武器」になってしまうと、自己中心的な考えや行動が募り、今まで以上に「敵」を増やす事となりかねません。
夢を叶えることができるということは、何かを失うことを覆すことはできない。
それは、「環境(状況)」・「支援」・「欲望」など、無数の気づきにくいことが潜んでいるかもしれない。
だが、それらを失うということは、同時に「変われるチャンス」「感謝をする」「手助けができる」という、他者の役に立てることができる「貢献」を得ることができるのである。
要は、何かを得ることで、何かを失うことを恐れないためには、変わろうとする気構えと、協力して頂いた人たちへの感謝、そして、得たもので、他者に貢献できる事は何かを考えることが大切。
「何か」だけに執着してばかりいると、無数の気づけない大切なことを見落とし失うこととなるのだ。
ほしい、ほしい、なりたい、こうしたいという得ることだけに執着していると、本当に大切な「何か」を手放していることに後から気づいてしまうのだ。
失うことで得られる「何か」
「何かを得れば、何かを失う」
何かを手に入れたいなら、何かを手放さなくてはいけない。
あなたは、この事を信じますか?信じて疑わない人もやはり多数いるでしょう。
僕は、信じます。
というより、そうあるべきだと思う。
だって、何かを得るばかりでは、失うことでわかる「ありがたさ」に気づけないし、自分のキャパには限りがあって、手放すものがなければ新しい何かを取り入れることができません。
それに、失うものがあることは信じるが、それは同時に、「何かを失うことは、何かを得ること」でもある。
失うものが、すごく大切で、すごく尊いもので、すごく儚いものであればあるほど、それに対する「感謝」に気づくことができます。
その感謝の意を示すために、得たもので他者に「貢献」できる権利が与えられる。
要は、全ては捉えかた次第。何事も、結局は自分の「解釈」によって、人生は好転するのだと思う。
その時、大事なことは、「失うことを大切にする」ということを絶対に忘れてはいけないということです。
失うことは、気づきにくいけど、何かを手放さなくては、何かを得ることができない決意が必要。
けど、その失うものは、ここで説明した「環境」や「支援」「欲望」ではなく、もしかすると、何かを得るためにこれまで自分だけが努力をしてきた、と感じていた「孤独感」なのかもしれない。
と同時に、手に入れたのは、自分だけが、みていた気がする「夢」じゃなくて、貢献による、みんなと共有できる「キズナ」とか「つながり」なのかもしれませんね。
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