人工知能(AI)にできない、人の「考える」領域

人工知能(AI)にできない、人の「考える」領域

AIに仕事がとられる?

学習した膨大なビックデータを使って瞬時に答えを出すその創造性を獲得した“ 人工知能(AI) ”の進化と脅威。

侃々諤々のAI征服・略奪論の文字としゃべりばかりを浴びせられ、不安と期待が両立している今日この頃。

「AIに仕事がとられる」とか、AIが人類の知能を超える「シンギュラリティ」という意味深な俗説推論は、かつての「ノストラダムスの大予言」とか、「日本沈没」と同じ類のもの。

これらの目的は、「みんながそうならないようにこれからも努力しましょう」という意味合いもあるのだろうけど、恐怖心を与え、そういった類のノンフィクション本とか、メディア報道とか、何かしらの経済効果を得るための企みがある否めない。

正しくは、「AI技術の発達により、今まで人間がやっていた労働を機械やロボットが肩代わりしてくれる時代が必ずやってくる」、と捉えるべきであって、それを「AIに仕事が奪われる」という悲観的ないいかたに置きかえただけ。

そもそも未来がどうなるかなんて誰もわからないし、まんまとAIに支配されるほど「人間はそんなにバカじゃない」。

明るい未来を作る上で、人それぞれが、「今」何をするべきかを考えた方がよほど建設的。

今後もおそらく「AI征服・仕事略奪論」に関する報道は廃らないだろうけど、あくまでそれは、「いい意味での脅し」のためのシナリオだと捉えるべきだろう。

そんなことより、自然破壊による天災という最悪のシナリオを回避するために、今から何をするべきかを考える事の方がよほど重要事項だと思うがどうでしょうか?

ロボットは人間の力でどうにかできるが、自然現象だけは、人間の力ではコントロールのしようがない。

いずれにせよ、この件に関する深堀りは、ここまでにしておきます。

今回は、人間にできて、人工知能(AI)にできない「コト」はなにか?について考えてみた。

あくまで、AIに仕事を奪われない職は何か、とかではなく、人が持つ唯一無事の得意分野に焦点をあててみた。

AI技術にできない事は何か?

さて、人間にできて、人工知能(AI)にできない「コト」はなにか、という発想自体がそもそもまちがい。「コト」ではなく、不可視しにくい人間にしかないもので考えるべきだと思う。

「どんなコトができるか」という具体的なものではなく、「どんな想像ができるか」というあいまいなで抽象的な領域にこそ、人間ならではの得意があると思うのです。

少し意味を捉えにくいかもしれませんが、このまま読み進めてください。

AIにはできないことは何か、結論から言うと、モノの特徴ではなくモノの「概念」、理由がハッキリしない「創造」という思考の領域。

具体的なモノを認識できても「概念」を捉える事はできない

AIが例えば、「リンゴ」を見た時、「丸い・赤い・へたがある」というデータを覚えたとしましょう。

そして驚くことに、白黒のモノクロ写真に写ったリンゴを再びみせた時、それを「リンゴ」だと判断できないという。それは、白と黒の写真で、「赤い」データが欠けているからです。

しかし人間は、白黒写真のリンゴを「これはリンゴ」だと認識する事ができる。

つまり、AIは物事の概括的な意味内容、つまりモノの「概念」を捉え判断することができないのだ。

ですが、それは現時点でのことであり、いずれはAI技術が進化することにより「概念」をとらえることもできる可能性は大。

AIが創造できない領域は「知らない事すら知っていない領域」

AIが何かしらの問題事項を解決する方法を思いついたとします。それは、蓄積されたデータをもとに高速な論理処理で出された結論。

しかし、人間の場合、突拍子もないアイデア、つまり創造的な解決方法を出した時、それは決してロジカルではなく、「なんとなく」や「特に理由がない」ということが多くある。

モノの「概念」はいずれ猛スピードの処理能力を誇る人工知能は難なくクリアできるかもしれないが、新たな「創造」は計り知れない、無限ともいえるデータを必要とする。

いや、人の創造をすべてデータ化できるのは、宇宙の創始者とされる超自然レベルを超えないと不可能だろう。

つまり、物事を「創造するチカラ」、人の地頭でしか思いつかない思考の領域があるのではないか?と、なんとなく考察してみた。

私たち人間の知能が莫大なデータと処理能力を誇るロボット知能に勝る思考の領域があるとするなら?

それは、「無知の知」の領域かもしれない。

私たちの身の回りの事実や現実の出来事、あるいは、コトの見方や考え方といったものを、「それを知っているかどうか」の3つの領域で分けたとしよう。

一つは、「知っていることを知っている領域」。

いわゆる知識のことで、これまで蓄積してきた言葉やモノの意味、何かを成し遂げるノウハウなど、知っていることを認識している領域だ。

もう一つは、「知らないことを知っている領域」。

ここでいう「知らない」とは、例えば、専門分野に関してはよく知っているが、それ以外は詳しく知らないなど、ネット検索や人に聞いたりして、知識を得る行為をおこない、「知っている」の領域意外の事をいう。

そして、三つ目は、「知らない事すら知っていない領域」だ。

前者2つの「知っている」「知らない」エリアをさらに広げた膨大な領域。自分は知らないことすら知らない、気づいていないことすら気づいていない、いわゆる「無知の知」という概念に準える。

「無知の知」とは、自分がいかに何もわかっていないかを自覚せよということで、謙虚な姿勢を持ち続けることが大事であると唱えた古代ギリシャの哲学者ソクラテスの思想とされている。

彼が言うには、自分は真理が理解できていないということを認め、初心の心を忘れず、いつまでも学び続ける姿勢を「真の知恵者」だと力説。

私たち人間が、その「真の知恵者」に達するには、知っていないことを理解し、これまでの固定概念を排除した新たな発想を要するでしょう。

一方、最近の 人工知能(AI) を知能領域を察するに、「知っている」ことや「知らないことを知っているに変える」領域は、確実に人間レベルを超えようとしている脅威は往々に感じる。

だが、その領域は実は非常に狭いエリアであり、無知の知の領域、つまり、知らないことを発見する能力に関しては、例えAIレベルの知能でさえ、達していないのではないかと考察できる。

つまり、「過去の知識データ」の量はいずれAIに制覇されるも、「未来の知恵データ」を獲得することは考えにくい。

なぜなら、そのレベルまで行くと、それは時代を超えてタイムマシンにのってやってきた、一見タヌキのようなゆるキャラを装いながらも実はネコだった「未来型ロボット」に相当するからだ。

いや、もしかするとすでにそれは「あり得ないことではない」のかもしれませんが。

無知の知を創造する「水平思考」

「ロジカルシンキング(論理思考)」とは、過去のデータを伝に、A→B→Cというように物事を順番に積み上げながら、筋道立てて正解を導くその「過程を考える」ことが重要。

そしてそれは、知らない領域を知っている領域に変える「問題解決」に優れている。

しかし、深く掘り下げ問題を解決へと導く垂直思考であるロジカルシンキングでは解決できない問題がある。

それは、知らないことを知らない領域、つまり、無知の知の「未知なる領域からの問題発見」という問題解決をどうするかだ。

これはつまり、「A」という問題点の前の「○」→「A」であり、過去のデータを伝には解決できないといえます。

私たちの「考える」は、論理的に考えるロジカルシンキングと、前例のない未来のデータを伝に考えることが必要です。

知らない領域を知っている領域にするロジカル思考のエリアを広げるには、垂直思考を拡大した、水平思考を要することがわかる。

それが、ラテラル(水平思考)という思考法であり、自分の頭で考える「地頭力」である。

ロジカルシンキングは思考の途中で論理の運び方に無理があれば正解にはたどり着けません。

常識や経験から、妥当だと思われる「正解」を導くためにロジックを掘り下げていくので、垂直思考と呼ばれることもある。

これに対してラテラルシンキングは、解決策を導くための順番や過程はあまり問題にならない。

だから、筋道立てて考える必要もない。それどころか、スタート地点からジャンプして、いきなり答えに到達してもいい。

ロジカルシンキングと違って、「唯一の正解」というものがありません。

視点を広げる際にさまざまな選択肢が生まれますが、どんなものであれ、問題の解決につながるものはすべて正解。

答えが多ければ多いほうが望ましく、常識的に考える必要はなく、あらゆる案に対して「それもアリだね」という態度をとる思考法だ。

「~であるべき」「~となるのは当然」という考え方から離れて自由に発想し、さまざまな可能性を探ればいい。

このように、ロジカルシンキングと比較すると、ラテラルシンキングがどのような思考法なのか、なんとなくつかめてきたのではないでしょうか。

ここで、誤解のないよう強調しておきますが、ラテラルシンキングとロジカルシンキングは、決して対立する考え方ではありません。

また、問題を解決するときに、どちらかひとつを採用しなければならないわけでもない。

ラテラルシンキングができれば、ロジカルシンキングは必要ないということではなく、ラテラルシンキングで考えると、たくさんの選択肢が得られます。

その選択肢の1つひとつについて、現実に実行できるかどうか、実行する上で問題がないかどうかはロジカルシンキングで考察する流れがベスト。

なぜなら、たくさんの選択肢が浮かんでも、最終的に実行できるのは、一つだけだからです。

つまり、思考の順序としては、最初にラテラルシンキングで発想し、次の段階はロジカルシンキングで検討するものと理解しよう。

さて、実際にラテラルシンキングの思考法を使うには、どういった考え方が必要なのか?そのために必要な力や手段といった方法に関して、ここではまだ何一つとしてまだ説明していません。

決して勿体ぶっているわけでなく、自分の頭で考えることは、自由な発想であり、気づいた時の嬉しさや考える楽しさをあなたはまだ知っていないかもしれない。

つまり、「無知の知」であるということをまずは知る必要があると気づいてもらいたかったと解釈してもらいたい。

それでは最後に一つ、ロジカルシンキングとラテラルシンキングの違いが分かる事例をひとつ紹介して今回は終わりにしましょう。

1970年。華やかに開催された大阪万博の話です。主催者は、「ある問題」に悩まされていました。

当時の大阪万博は日本中を巻き込んだ一大イベントでしたから、早く会場に入ろうとする人たちが、開門前から入口に押し寄せました。

入場時間になってゲートが開くと、来場者たちは人気のパビリオンに向かって一斉に走り出します。

ところが、人の数に比べて入口付近のスペースが極端に狭くなっているため、急いでいる人同士がぶつかって大変危険でした。警備員がいくら「走らないで!」と怒鳴っても効果なし。

いつ事故が起きてもおかしくない状況。来場者の安全を確保するには、どんな解決策があるだろうか。

この問題解決方法をロジカルシンキングで考えてみると、

警備員を増員する

ゲートを大きくする

入場者を制限するための柵をつくる

……という方法が考えられるだろう。

しかし、主催者が導き出した解決方法は全く異なる発想だった。

要は、入場者が走らないようにすればいい。

主催者は、入場を待っている人たちに、小さな「会場案内図」を配った。走りながらでは小さな案内図の文字は読めません。見事に急ぐ人はずいぶん減ったのです。