「モノ」から「コト」になった?「どんなコト」が変わったの?

「モノ」から「コト」になった?「どんなコト」が変わったの?

「モノからコトへ」っていうだろ。

所有価値としてのモノ消費から、物欲はあまりない、というから体験価値としてのコト消費へ。

こんな車に迎えに来てほしいモテ車、ギラギラ感がすごい黄金の腕時計、満ち足りるを知る者が宿る品格を奏でる豪邸、ブランドファッション、三ツ星レストラン・・・

折り紙つきの上等仕立ての磨き抜かれた最上の「モノ」であろうが、所詮は、「モノ」。

若者だけに限らず、30代から50代、それ以上の熟年者までもが、「スペックや機能ではなく、モノが実現してくれるコトの豊かさや満足度で商品やサービスを選ぶようになった」ということであり、「モノからコトへ」が、いままさにリアリティを持って社会を動かしつつある。

つまりは、大量消費社会、成長社会が陰りを見せつつある今、消費者のニーズは「モノ」の豊かさから「心」の豊かさに変わった、ということだろ?

じゃぁさ、じゃぁさ。「あの名言」も、こうなるわけだ。

「俺のモノは俺のモノ、お前のモノは俺のモノ。友だちだろ、仲間だろ」

 ↓

「俺のコトは俺のコト、お前のコトは俺のコト。友だちだろ、仲間だろ」

 ↓

「俺の心は俺の心、お前の心は俺の心。友だちだろ、仲間だろ」

時代の流れとともに、「傲慢なジャイアン」は、だんだんと「キレイなジャイアン」に、やがては「シンパシーなジャイアン」になってゆく。

喜びも、悲しみも、まるごと共鳴るジャイアンの共感精神は、昨今センチメンタルな若者たちの英雄に君臨するだろう。

心は試し

「モノは試し」っていうだろ。

モノからコト(心)へ、やってみるよ。

「モノは試し」とは、なんでも実際にやってみなければ成否はわからない、だから最初から諦めずに一度はやってみるべきだということ。

「コトは試し」にしてみる。やっぱり意味としては同じなわけだが、「心は試し」って置き換えると、なんだか度胸とか気持ちの持ち方をどうあるべきってなるよね。

心の状態がどうであろうと、とにかくやってみなけりゃわからない。とか。

モノからコト(心)へと移ろう、その意味は、こう捉えられそうです。

「モノは試し」は物質的なモノや具体的な事とかが、どんなモノであるのか。モノにカメラのレンズに映し、ピントを合わせます。

「心は試し」では、人、心の中の気持ちの在り方が、どうであるのか。人の心境にカメラレンズのピントを合わせフォーカスさせます。

どんなモノだろうが、どんな事だろうが、その「モノ」のレベルに捉われてしまうと、周りの評価とか、世間体とか、流行ってないとか、あの人がこの人がやめとけっていったから、とか。

モノがどんなモノであるのかは、人によって全く違ってくる。他人がどんな「モノ」なのかを判定してるからといって、それを鵜呑みにしてしまうと、「やってみよう」に至らない、始めから「やめとこ」になっちゃいそうやん。

でもさ、心に一眼レンズを映し出し、ピントを合わせると、心境とか、心情だけがクッキリと映される。モノは全く映らない、いや映す必要ある? ないよね。

だって、それに立ち向かう人の像にレンズをフォーカスさせた方が、美しいし、映えるじゃん。

ミケランジェロは、どんな「コト」を彫ったのか

「ダビデ像」って知ってるよね。体脂肪率5%以下くらいの痩せマッチョな外人男が左肩に投槍器(槍を飛ばす武器)をかかえてる、真っ裸でアレをむきだしにしている勇敢な彫刻の像。

ミケランジェロという名彫刻家の有名な作品なんだけど、青年ダビデを彫った彫刻家はミケランジェロ意外にもたくさんいたそうです。

ミケランジェロをはじめ、多くの彫刻家は、それぞれの青年ダビデの像を彫ったわけなんだけど、ミケランジェロだけは、他の人達とは違っていた。

この「ダビデ像」は、青年ダビデが、ゴリアテという巨人兵士に戦いを挑み、見事にダビデが勝利した、というシーンを彫刻したものです。

ミケランジェロ以外の彫刻家は、戦いのシーンとか、勝利の瞬間とか、いやゆる誰もが熱くなるクライマックスシーンを彫ったのです。

どうですか? 普通はそうですよね。仮に僕たちだったら、青年ダビデがゴリアテを打ち取った瞬間のシーンとか、ダビデがこぶしを挙げ、勝利に浸ってる栄光のシーンとかを彫刻しようって思うよね。

だってその方が、ダビデが勝利したことがよくわかるし、ダビデのドヤが映えるじゃん。

だけど、ミケランジェロは、別のシーンにフォーカスした。

ミケランジェロは、戦いに挑む直前の、緊迫したダビデの姿を彫った。いまから強敵ゴリアテに立ち向かう、青年ダビデの「勇敢」な姿を彫刻した。

戦いとか、勝利した事とか、なんにもわからない、青年ダビデの勇猛果敢(ゆうもうかかん)な姿だけを彫刻にしたのです。

説によると、ミケランジェロは、ダビデのあらゆる角度でそれを計算して彫ったとされています。

像から見て右側は、体のバランスも取れていて安定している「静」の状態を、左側は、足を投げ出し髪も乱れた「動」の状態にあるという。

目に関して言えば、左目は体の動きに準じて敵(ゴリアテ)をまっすぐに睨みつけ、右目は打ち手を狙う冷静な戦略の眼差しだといわれている。

来年、東京オリンピックが開催されます。金とったとか、銀とったとかを喜び盛り上がるのもいいけど、選手たちの戦いに挑む直前の勇敢な姿にも注目してみようよ。

だって同じじゃん。メダルもなんもとってない選手って、僕らと同じ一般人。ちょっと注目されてるだけ。

だから、その選手が挑もうとする姿は、僕ら一般人と同じ。同じ気持ちになれるし、それが「共感」っていうんじゃないかな。

つまり、「モノ」がなんであろうがそんなことは関係ねー。結果がどうであろうが知ったこっちゃねー。フォーカスさせるところは、人の心境。初めから怖気(おじけ)づいたり、周りの人に影響されたりしない、自らの心の在り方がどうであるかなのだ。

言い伝えられてきた「モノは試し」ということわざは、モノに視点を置くのではなく、モノに立ち向かう人の心に視点をむけよう。

決断は大胆に、検証は慎重に

多くの物事は、安全策を取る事だけが必ずしも得策とは言い切れない。

自分が「うまくいく確率が高い」と思う事は、多くの人もそう、思っている。

たとえその選択肢が正解であったとしても、同じ考えを持つ人が多いため、結局リターンは少ないのは否めないでしょう。

そう考えると、やはり、何事もその他大勢から抜きんでる覚悟があるというなら、他人とは違う大胆な決断が必要だ。

いやいや、なにも他人と違う必要はない、みんなと同じでいいんだ。その方が安全だし、「当たる」可能性だって高くなるじゃん。

確かにその解釈は正しいといえます。商売でたとえるなら、誰も手を付けていない、手あかのついていないニッチな市場とか、誰もやったことのないサービスや商品開発をやったとしても、それを求める人たちがいねけりゃ商売なんてあがったりだ。

だから、結局は、多くの人が求められている市場を選択するべきなのだが、そこには競合揃いの土俵であることも確か。

競合をはじめ、その他大勢のライバルが群がる市場で抜きんでるためには、同じ土俵で「違うこと」をしないといけない。

大企業を含め、競合相手はたくさんいる。しかし、製品やコンテンツの作り方や、サービスの提供方法を変えてみることで、そこに集うライバルとはまるで「違うこと」をする必要があるのだ。

カンタンに真似できない「違うこと」があれば、後から大企業が土足で参入してこようが怖くはない。

誰もいない遠くの場所に宝は埋まっていない。チャンスは、多くのライバルがひしめく目の前にあるんだ。

けど、そのチャンスを掴むには、その他大勢から抜きんでる覚悟を決め、他人とは違う大胆な決断がいる。

ただし、思い切ったことをやみくもにするだけでは失敗のリスクは増え、物事が持続しない可能性が高くなってしまいます。

大事なのは、「大胆に決断し、慎重に検証する」こと。

リスクの高い行動をしても、間違っていると思ったらすぐに見直せば、大ケガする前に、なんども修正がきく。

しかし、往々にして、多くの人は、「大胆と慎重」「決断と検証」の組み合わせがズレているようだ。

問題なのは、「慎重に決断して、大胆に検証する」タイプ。

安全策ばかりを好み、「違うこと」をしようとしない。一方で、安全な事に決めたあとは安心して油断してしまうので、あっさり放置してしまいがちに。

すると、安全だったはずのことはライバルや大企業に征服され、やられた途端に、大きなダメージを被る始末になる。

安全とか、まちがいないとかに敏感になり、決断時に慎重になるくらいなら、決断は大胆におこない、それを検証する際に慎重さをシフトさせるべきだと思う。

巨人兵士ゴリアテに戦いを挑んだ青年ダビデはの決断はすごく大胆だったかもしれないが、その戦いは、てきとーではなく、慎重かつ冷静な戦略をこうじていたのかもしれませんね。

覚悟を決めたダビデも決断を彫刻にしたミケランジェロは、そのことを表現したかったのだろうか。

その他大勢の彫刻家達とは「違うこと」表現する大胆な決断を、ダビデと同じ、ミケランジェロ自身がそれを選択した。

今現在、みんなが知っている「ダビデ像」は、ミケランジェロが彫った像だ。「違うこと」を選択し表現した彫刻像だけが、500年以上たった今でも多くの人達の心を震わしつづけている。

モノからコトへ。

元々は、商品広告のキャッチコピーとして広まり、「モノ消費からコト消費へ。」といった消費行動を言語化したコピーだった。

モノが飽和状態になった現在では、物質的なモノではなく、体験を売れと。

しかし、モノはモノであるしかないが、コトは、商売的な体験だけではなく、捉え方によっては広義の意味としてでもいけそうです。

「どのようなコト」ではなく、「コトに対して(自分が)どうあるべきか」

モノからコトへと移ろう未来がこようとも、結局は「モノは試し」なんだろう。

エモ消費??

なに? 次に来るのは「エモ消費」?

エモとは、エモーショナル(感情的なさま・情緒的なさま)の略で精神価値へと移ろうらしい。

モノから体験へ、そして精神に。

モノとかコトという「手段」から、いきつくは人の精神(心)に価値をおく。

だけど、消費ニーズが人の精神を揺さぶったとしても、それを受け取る人がどう捉えるかが大切になってくるよね。

だからさ、次来るのはエモ消費といってるけど、それは結果であって、今でも求められているし求めているんだよ。

その結果を出すか出さないかは、結局は人。

何が変わったって、そりゃ「モノ」から「ヒト」へ、でしょ。