いつまでも満足できない未達成感の正体とは

いつまでも満足できない未達成感の正体とは

世の中にはすごく苦労をしている人は多くいます。

仕事はうまくいかない、家庭はめちゃくちゃ、プライベートはあってないようなもので、いつも追い詰められている人は多くいます。

ところが、同じ苦労をしている人でも、わざわざ自分に苦労を課している人もいるようです。

仕事はちゃんとある、家庭もある、特にお金に困っているわけでもない、プライベートもそれなりに充実している・・・

特別不満のある環境ではないはずなのに、なぜか「なりきれていない自分」をいつも感じている。

思い悩むとまではいかないまでも、何となく「自分はまだまだこんなもじゃない」などと、スゴイ自分になってやる感があるれている人は、結構多かったりする。

もっと偉くなりたいのか、もっと認められたいのか、もっと自分をだしたいなど、どこかで誰かに見せつけたい欲があるのだろうか。

とくにわかりやすいのが、自分アピールがしたいがために、SNSの投稿がやたらと頻繁で、たわいもない内容を何度も何度も投稿したがります。

もちろんそんな人ばかりではないのですが、投稿内容がネガティブだったり、主張しすぎていたりすると、やはりアピールしたがりなのを感じてしまいます。

これは心の中のフラストレーション(不満)を今すぐ誰かに話したいけど話せない、苦しいので文字に書き出すことで発散しているとも考えられます。

あるいは、自己成長欲が強いため、できるだけ発信して、アウトプットを絶やしてはならぬとばかりに、とにかく発信をたやさないようにSNSという媒体を利用して、たくさん投稿しようとする人もいる。

アウトプットは発信の数ではなく、仮置きしたインプットをいかに自分事に活用できるかどうかで定着させる精度の深さにより記憶させないといけないのですが、ただ漠然と発信しているだけでは仮置きしたインプットをそのまま出しているだけなんです。情報を一時的にレンタルしているだけで、自分の血肉にはなりにくいということを知っておいた方がいいかもしれません。

まぁ、そんなことは別にいいのですが、自己成長欲や上昇志向が強すぎる人をはたからみると、なんだか「大変そう」というより、完全に「何かに囚われている」か、「何かに縛られているな」、と感じることがある。

こういった人は、がんばってはいるのですが、何を目指しているのかわかりずらくて、何かのために尽くそうとしているようだが、どうもそうではないらしい。

自分に対し「自分は成功者(であるはず)という理想像」と戦っている気がします。そう、いってみれば、納得のいく自己満足がしたいのです。

「今」に満足できない苦悩の願望精神

例えば「何が何でも資産10億円を築く」と目標を立て、がむしゃらに仕事に精を出してきた人が、実際に10億円を手に入れたとき何が起きるでしょうか。達成した瞬間は、自分の努力が報われたと喜びに浸ることができます。

「これまでの努力はムダではなかったのだ!」と、その余韻はまさに夢のような心地です。ところが、その感覚は長くはもちません。時間が経つにつれて、徐々に喜びや快感が薄れ出すのです。

次第に、「自分が手に入れたかったのは、こんなものだったのか?」という空虚感や、数字が減っていくことへの恐怖感が生まれてきます。

すると、その空虚感を埋めようと、恐怖感から逃れようとして、さらなる目標設定をしていくのです。目標はどんどん上がり続け、数字やステータスに追われながら人生のサイクルが続いていきます。息をつく暇もなく仕事に勤しみ、目標を達成し続け、さまざまなものを犠牲にしながらも努力を続ける。

その姿はまわりからすると「すごい努力家である」と尊敬されることもあるだろが、残念ながら本人には満足感はありません。なぜかわからないけど虚しさをかんじてしまうのです。

成功を追い求め、達成したらさらなる成功を追い求め……というサイクルにはまっているときは、「幸福を後回し」にして生きている状態です。

なぜ幸福感や満足感が得られないのかというと、「今を生きていないから」です。

生きている時間のほとんどを未来に費やしているので、今を生きている時間が少ないのである。

人は、「もっと」を追求し続ける生き物です。もっとほしい。もっと快適に。もっと効率的に。もっとえらくなりたい、認められたい、満足したい。

そのこと自体は否定したりはしません。上を目指そうとする気持ちはすごくたいせつだし、誰だってそうでしょう。

しかし問題なのは、「もっと何かがほしい」というその願いが「苦悩の状態」から生まれたのか、「正常な心の状態」で生まれたのか、ということです。

苦悩の状態で生まれた願いとは、「自分はこうでなくてはいけない」「どうしてもっとがんばれないんだ」など、自己否定(苦悩)からの願いをいいます。

苦悩の状態で生まれた願いが達成されるにしろ、達成されないにしろ、あとで必ず自分を苦しめることになります。

たとえば、「自分は成功者であらねばならない」という理想像に縛られている人は、このように考えるかもしれません。

「もっと実績を上げもっと有名になればばまわりから成功してるって思われるだろう」

このような考えのもとに目標を追求してしまうと、「せっかく目標を達成したのに心が満たされない」という状態になります。

なぜならば、その人が本当に求めているものは幸せな生活でもなく、年収の高さでない、「成功者としてのイメージを固めること」だからです。

また、その目的が達成されない場合も「なぜ達成できないのか?そんな自分には価値がないのではないか?」と、苦しむことになってしまいます。

「成功者でなければならない」などの理想像の種類はさまざまです。しかし、ほとんどの理想像は深層意識の中で、それ(理想像)を追求するのがあたりまえ、「それが自分の本来の姿である(そうでなければ自分でない)などと、どこかで刷り込まれてしまっています。

精々、テレビかネットの影響かもしれませんが、「自分に足りない何か(=理想のイメージを固めるための要素)」を埋めるために、「もっともっと」とばかりに、より高い目標を設定し続け、終わることのない「MORE(もっと)」を求める苦悩のサイクルを回し続けてしまうのです。

足りないものを増やすことが幸福の本質ではない

真の幸福や満足感は、手に入れようとして入るものではないのです。今足りない何かを増やすことで幸せになるのではなく、今置かされた自分がどれだけ幸せなのかに気づくことが最初にすべきことのはず。

今自分は十分すぎるほどに幸せだといられるということは、正常な心の状態でさらに願いを求めることになります。

では、現状に満足できる「正常な心の状態」で目標を掲げるとどうなるでしょうか?

今のままでも満足しているため、「あとこれくらいお金があると便利になる」など、非常に素直で現実的なものになります。

たとえば、「お金をもっと稼いで車を買いたい。そうすれば通勤がラクになり、空いた時間で家族と過ごせる」という目標設定の場合、心はまったく苦しみません。その先に何をしたいかがはっきりとわかっている状態だから。

この場合、もしも目標が達成されなかった場合でも「通勤はちょっと不便なままだけれど、別に何が減るわけでもないし、いつかまた機会がくるだろう」と、否定的に捉えることもないので落ち込んだりしないはず。

他にも、「今取りかかっているプロジェクトを成功させたい。なぜならその結果、より多くの人の生活がラクになるから」という目標設定も、自分中心の意識ではなく、相手(世の中)を意識したインスピレーションにもとづくものなので、「もっと自分が」という追い詰められた苦しい状態ではないため、安定した正常な心の状態で仕事に臨むことができるでしょう。

苦悩の状態を作っているのは理想像への執着です

友人から「太ったね」と言われたと、たいていの人は傷ついてしまうかもしれません。しかし、「何とも思わない」という人もいます。

いったいこの違いはどこからくるかというと、「自分が強く執着しているもの(理想像)」があるかないか、ということです。

「自分はスリムでかっこいいはず」という理想像を持っている人は、「太ったね」と言われると傷つきますし、ちょっとお腹が出ている自分の体を鏡で見たときには落ち込みます。

しかし、「別に体型なんかどうかどうでもいい」と考えている人は、太ったねと言われても、鏡でお腹の出た自分を見ても、何も感じません。

つまり、起きた出来事が苦悩をつくっているのではなく、自分が執着している理想像が、苦悩をつくり出しているのです。

人は「こういう人であるべき」という自分の理想像を掲げ、理想像と現実との間にギャップが起きると、その瞬間に「ネガティブな感情が湧いてしまう。

その苦悩の状態のまま、理想像へと向かおうとしてしまうので、永遠につかめそうにない雲をつかもうとしてしまうのです。

常に「こうあるべき」という刷り込まれてしまった理想像に執着しているにもかかわらず、それに気づかないため、無意識にしがみついてしまっているのである。

周りから見ると、いったい何が不満なのだろうと思われることが多く、場合によっては「贅沢な奴」だと勘違いされる恐れもあります。本人はそんなつもりはなくともです。

いつもなんだか、物足りなさを感じる、現状に満足できないと感じる人は、もう一度、今自分にあるものを確かめてみよう。

目的達成のスタート地点は、そこからでしか、歩きだすことはできないことに気づくはずです。