成功を共有する「人を巻き込む力」で限界を突破する

成功を共有する「人を巻き込む力」で限界を突破する

世の中には、自分ひとりできる事はたくさんあります。

子どもの頃から「できる事は何でも自分でしなさい」と親や先生から言われてきました。

「何でも自分でしなさい」は、いつまでも親に頼らないで、自分ひとりでできる事はやってみよう、という「自立」を育むためなのでしょう。

ですが、「何でも自分でできる事はしよう」だけでは、どんなことでも自分一人でやらなくてはいけない、という極端な捉え方をしてしまうかもしれません。

本当は、「何でも自分でしなさい」ではなく、「自分でできるところまでやろう」というのが正しいんだと思います。

しかしなぜ、「自分でできるところまでやろう」という気持ちが大切なのか?

それは、大人になってようやく、何となくだが分かった気がする。

子どもの頃から「何でも自分でできる事はしよう」と教わったことは、「自分でできるところまでやろう」という意味だといいました。

しかし、それだけでは納得できないのではないだろうか。

どうして、自分でできるところまでやらなくてはいけないのか?

それは、「自分でできるところまでやろう、(じゃないと他人の協力をえられないから)」という「他人を巻き込む力」において、必要不可欠なことだから。

自分一人でやり遂げることを美徳とする人は、何でも自分でやってやる精神が旺盛となり、限界ギリギリまでがんばってしまいます。

それはそれで、悪いことではないのだが、やがては壁にぶつかる。

人は、自分一人でやり遂げられることには、限界がある。限界までがんばりとおしたところで実際の成果は信じられないくらい「ショボイ」ものだったりする。

僕は、どうしてか、子どもの頃から何でも自分でしなくちゃ精神が強く、ささいなことでも「他人に頼らないで自分でやってやる」という思いがあった。

自分でやることに価値がある、他人に任せるなんてのは負けを意味するのだ。という思い込みが異常なほどにあった。

そんな僕は大人になるにつれ、できる事は何でもするべきだと思っていたはずだが、誰もが大抵は、「何でも自分一人でやろうとするな」です。

そういわれるもんだから、他の誰かに任せることもあったが、結局は「自分でやった方が早いやんけ」となり、再び自分でやってしまうのである。

だが、その自分一人でやり遂げる美学は、限界という壁にぶち当たった時、何かが足りないことに気づいたのです。

それは、他人に協力を求めることができない。ということです。

人からの「協力」は個の限界を超えた「強力」を発揮する

要は、自分でできる事には限界があるため、他人に任せられることは任せるべきだということです。

自分一人の限界をこえて、大きな目的達成するためには、他人の力を借り、他人をレバレッジをかけない限りはムリだということ。

そこで必要になってくるのが、「他人を巻き込む能力」というわけ。

他人を巻き込むために絶対的に必要なことは、「いかに協力をしてもらえるか」が重要であることは分かると思います。

他人に協力してもらえるということは、他人が「協力してもいい」と思ってもらう事ですね。

だけど、自分ができるところまでやりきるその姿をみせないで、いきなり「協力してください」といったところで、果たして協力しようと思ってもらえるだろうか?

答えは「ノー」。当然といえば当然だ。

だからこそ、「自分がやれることはやろう」という気持ちが大切で、実際その姿を見せることが「他人の力を巻き込む能力」の土台となるのです。

子どもの頃から「やれる事は自分でやろうね」と教わったことは、まちがいではなかった。

なぜなら、親は「自分でやれるところまでやらないと、将来誰かに任せたいと思った時、誰も協力してくれないから」ということを教えてくれたからだ。

他人を巻き込むことの必要性

なぜ、他人を巻き込むことが必要なのでしょうか?

それはすごく単純で、他人を巻き込み能力があれば、多くの人の力を一気に集めることができ、多くの人を味方につけた上で、目標設定を的確に行えば、当然一人で取り組むのに比べて、10倍ではきかない速さで物事が進んでいき、結果を出せるからに他なりません。

しかし、自分は特に大きな夢も目標もないから、別に他人を巻き込む能力なんて必要ない。という人もいるかもしれません。

今までの僕のように、何でも自分でやり遂げることを美学とする傾向にある方は、つい、そう信じてしますし、実際そのような行動をとってしまうかもしれません。

多少無理なことでも一人でやる精神で、案外できてしまうこともあるため、「自分の力でできるから」って思ってしまいますよね。

だけど、その「自分の力でできるから」って思ってしまうのは、結局は、自分できる事しかしていないからです。

仮にある日突然、災害の被害にあった時、自分一人でその困難を抜けることはできるだろうか?

できません。考えなくとも、自分一人の力でどうにななるものではなく、必ず人の協力が必要です。

人を巻き込むときくと、自分の思惑どうりに他人を引きずり込むことだとおもってしまいますが、全然違う。全っ然、違います。

他人を巻き込むことは、手段であって、その先にある「共通の目的」が必ずあるということ。

災害から復興という大きな目的がある事は然り、精神的なダメージを回復させ、再び歩み寄る強い志を回復させなくてはいけないはずです。

とてもじゃないが、自分一人ではできないことであることはすぐに理解できるはず。

自分も、他人も、その復興という「共通した目的」があります。

互いにその目的を果たしたいという共通の願いが必ずあり、決して自分だけの目的を果たすために、思惑通りして下さいということではありません。

人に協力を求めることは、こちら側からお願いする事ではあるが、他人自らが、協力しましょうと「納得」し、歩み寄ってくれること。

共通した目的がなければ他人は納得しれくれません。協力しようとは思ってくれないでしょう。

だからこそ、必要なのだ。目的を果たすための手段として、「人を巻き込む能力」というものが。

お互いが、共通の目的をもって、協力しましょうと思ってもらえるようにできる能力なのです。

自分一人でやれることは、やるべきです。一人ひとりには、強みがあり、その個性を全力で発揮させることは大切です。

だが、その個性の強みは、早々に限界が訪れ、意外にも小さかったりする。

何が小さいかというと、「目的」を果たすだけのスキルや能力には、あまりにも足りなすぎるということです。

個人で処理できるタスクには限界があり、それぞれが強みを生かしながらお互いタスクを処理してチームを組むからこそ、ひとつの大きな目的を達成できるのです。

世の中は、自分で一人で解決できないことの方が実際は多い。

何かしら誰かの協力や助けによって今の自分がいるわけで、決して自分一人でなんでもやっているなんてことはない。

自分一人でやっていると勘違いしているのは、じつは自分だけ。

他人から見ると、目立つし、場合によっては、リスペクトされることもあるだろう。

だが、それだけです。「すごいですね」とか、言われるだけで、おしまいです。

自分が望んでいるのは、手が届きそうにない「目的を果たす」ことであるはずであって、「すごいですね」と尊敬されることが本当の目的ではないことに、虚しくも気づくのである。

夢を、願いを、自分一人では成し遂げられそうにない大きな目的を達成させたいなら、他人の協力なしではできません。

あなたがもし、自分一人でなんでもやることを美徳としているならば、それは、他人の巻き込む(協力してもらう)ために、情熱を伝えるからだという意識を持つべきです。

誰かに助けてもらうために、まずは自分で限界までがんばる。そう考えてしまってもある種ま違いではないと僕は思います。

なにせ、他人の協力なしでは生きてはいけないことの方が圧倒的に多いですから。

でしょう?

巻き込む側が意識するべきこと

さきほど、人を巻き込むためには、お互い共通した目的が必要だといいました。

ですが、実際他人は、それぞれ自分だけのやりたいことや目的に意識があり、協力し合って目的を成し遂げようという意識はほとんどありません。

協力し合あえば、互いの限界を突破し、思いもよらないことを果たすことができることに納得してもらわなければなりません。

ですので、巻き込む側は、協力を願う人にメリットを創り出す必要がある。これが巻き込み力の基本的なありかたなのでしょう。

そして、最終的には、互いがウィンウィンになる、そんな画を描く力が必要です。

仮にあなたが、他の誰かを巻き込もうとおもった時、あなたがはじめにやらなければいけないことがあります。それは何だと思いますか?

ただ単に、自分のペースに巻き込み動いてもらおう、といった利己的な気持ちで接しても、相手はあなたの気持ちに気づき、当然ながら協力しようとは思いません。

そこで、あなたが一番はじめにやるべきことは、成し遂げたい目的に対して、「本気で面白がる」ことだと思います。

単純に考えてみて下さい。他の誰かが、めちゃくちゃ面白そうにしてると、なんだか興味がわきますよね。

あつくるしい情熱と熱意をかたられても、「がんばってね」と思ってもらう事が精々で、とても協力したいとは思ってもらえなかったりします。

それよりも、「なんか面白そう」っていうワクワク感があるほうが、よっぽどやってみたいと思ってもらえるはずなんです。

巻き込む側は、何のためにその目的を果たすひつようがあるのでしょうか。その先に何を期待しているのでしょうか。

一度自分の本当の気持ちに素直になれば、きっと色々な考えが出てくるはずです。

心の底から面白いと思うことをすると、自然と人は集まってくるといわれたりしますが、人を巻き込む能力は、それに近いものがあると思います。

そのためには、巻き込む人自らが、どこに面白味があるのかをちゃんと知り、本気で楽しむことが何より大切でしょう。

巻き込む側が、心底楽しむことができれば、「何か面白そうだ」と、共感してもらえるはずです。

僕が思うに、人が惹きつけられることは、「がんばってる姿」と、「面白そうに楽しんでいる姿」だと思う。

巻き込まれる側はあくまで「ド素人」

人に協力をしようとする際、巻き込む側本人だけが、情熱的にがんばろうが、ワクワク感満載で楽しもうが、巻き込まれる側が「不安」だったり、ちょっとでも「めんどくさい」と感じてしまっては本末転倒です。

巻き込む側はあくまで、協力してもらう側なので、「作業環境」を整え、協力してもらう人の進捗を管理する必要があります。

そこでネックになるのが、やはり、巻き込まれる側のスキルと能力レベルです。

せっかく協力しようと思ってもらえても、いきなり1から10まで、やることのすべてをお願いするのはまずいでしょう。

人は初めから全てを任されると、当然ながら考える項目は増え、ミスしたり失敗したりする項目も多くなります。

やれそうだと思ったが、結構めんどくさいし、正直引き受けなけりゃよかったって思われてしまう可能性は大です。

あるいは、めんどくさいと気づいたとしても、「引き受けたからには」、とか「頼まれごとだから」と割り切り、多少無理してでも「大丈夫、できます」って言ってしまう事もあります。

なので、始めからババンって全てが書かれたマニュアルを渡すのではなく、とりあえずは、「これからやってみてください」と、試しに体験してもらう程度から始めるのが無難でしょう。

1から10まで記されたマニュアルを渡され、一緒にシミュレーションしたとしても、必ずしも完全に理解しているとは限りません。

そこで、「お願いすることの全てはこれだけです。もし、無理だと思ったら遠慮なく言ってください」といわれるとどうでしょうか?

巻き込まれた人からすると、(あなたには、無理です。あきらめます)といわれているようなもので、いい気はしません。

もちろん初めから10までできればいいのですが、最初につまづいていしまうと、厄介です。

たとえ、「この人ならできるだろう」というレベルの人であっても、始めから期待し、丸投げするのは協力ではなく、責任転嫁です。

なので、最終的にはこうしてもらいたいということだけ伝えておいて、ステップを踏んで徐々に段階を上げていく方が本人もストレスなくスムーズにできるはずです。

新入社員に仕事を教える時も、初めてのバイトちゃんに業務の作業を教える時も、初めはチョー簡単なことからスタートし、覚えることよりも、「体験」してもらうことを目的とします。

僕は昔、新人を教える時、初日は「見てもらうだけ」ということもありました。それだけでも本人の「不安」を取り除くことができ、ある種の「いい体験」にもなっているからです。

自分だってベビーステップで徐々に慣らしていく方がいいはずだから。

また、任せる範囲も、いきなりを広げるのではなく少しずつ広げたほうがいいでしょう。新しい仕事を頼むとしたら今より仕事自体は増えてしまうため、仕事が増えるのは面倒くさい、という心理的負荷をどれだけ減らせるかが配慮というもの。

たとえば、人前で話すことが得意な人に、講演の依頼をする場合、その講演のための資料作成までをお願いしてしまうと負担になります。その人が資料作成が苦手だとしたら、なおさら。

なので、この場合は、会場の手配や資料作成は、それが得意な人にお願いをするか、自分で行います。その人には、講演当日に気持ちよく話すことだけに集中してもらえるよう段取りを組む。

巻き込まれる側は、(たとえ経験がありできそうな人でも)あくまで何も知らないド素人だと認識し、少しづつ慣れてもらえるプログラムを計画しておきましょう。

他人を巻き込むためには、相手がストレスなく協力できる環境を整えることが最も大切。

金魚を水槽で飼うには、水槽の「水」をちゃんと管理しなくてはいけないのと同じですね。

水槽の「水」という環境をちゃんと整備し管理することが、金魚にとって最も望んでいる事ですから。

人を巻き込むことは「共同体」である

他人を巻き込み、共通の目的を果たすことは、それぞれにメリットがあるのは至極当然。

気を付けたい事は、お願いする相手にとってのメリットばかりを押し並べないようにすることです。

相手のメリットだけを話すと、「売り込み」の色が強くなり、だまされているのではないか、と不信感を抱かれてしまうかもしれません。

「これをやりたかったんです」「僕のメリットは、これができることなので、僕の夢を叶えるために力を貸してください」と、少々自分のエゴを出すことがミソ。自分の気持ちを出さずに協力だけ頼もうとすると「なんだかうまく利用されてるだけなのか?」と不信感をちらつかせるやもしれない。

なので、これは自分(巻き込む側)にとってのわがままです、という風に主語を自分(巻き込む側)にすることで、責任は自分(巻き込む側)にあるという意思を伝えることができるでしょう。

僕は、他人を巻き込む力があるということは、自分のことを信頼している人がいると感じられることであり、それは大きな財産だと思います。

他人を巻き込み、何かしらの目的を達成させることだけに終わらず、関わった人がそれぞれのフィールドで活躍し力をつけ、数年後も数十年後もあなたに協力してもらい、また協力することもあり、個人の限界を突破した共同体作業の力をもって、辿りつけそうにないことも不可能ではないかもしれません。

僕たちは、さまざまな共同体の中で生きている。その最小単位が家族ではないだろうか。

多様化が進み、個性を活かせる世の中になりつつはあるが、ほんとに個人プレイヤーになってしまっては、それは孤独であり、やれる事には限界がある。

共同体とは、上司と部下、先輩と後輩、そして親と子の関係が上下の関係にそれぞれが位置するのではなく、協力しあえる「横の関係」にあるからこそ、互いの個を超えた力を発揮するのだと信じています。

昔の僕みたいに「自分の力でなんでもやってやろう」とするのは、正直、他人を信頼していないといっても過言ではありません。

だって、人は誰だって、自らの能力を活かして他人の役に立ったときに、「幸せ」を感じるものだから。

人は一人で生きているのではない。自己の利益のみを追求するのではなく、他の誰かに貢献しようとする共同体感覚を得ることが大切で、またそうする事によって、人生に迷いがなく進みやすくなるのではないだろうか。