「感覚的」な曖昧さを伝えるにはどうすればいいか?

「あやふや」と「うやむや」と「あいまい」と。
あやふやにするから、うやむやになる。結果、曖昧(あいまい)な表現しかできないのか?
感動したとき、「言葉に言い尽くせない」とかいったりしますが、感動とは、複雑な喜怒哀楽の「あやふや」な感情が絡み合い、どの感情表現をするばいいのかがわからなくて言葉が「うやむや」になる。
だから、人は感動すると、言葉に言い尽くせないほどの「あいまい」な表現になってしまう。
うん、なるほどー。全然わからない。
ところで、「レストラン」に行ったとします。
ハンバーグが食べられる普通のレストラン。
(急に話が変わったのですが、あなたがレストランに行ったと想定してください)
まず、入り口の食品サンプルがある店なら、そこでそのサンプル品を「見て」、(うまそー)とかの感覚を覚えます。
入口サンプルのない店でも、テーブル席のメニューを「見て」、(どれもこれもおいしそう)ってなります。
そして、「○○ハンバーグ」を食べたいと思って、ウェイトレスさんに注文を。
思わずあなたは、ウェイトレスさんに「○○ハンバーグっておいしいですか?」と尋ねたとしましょう。
するとそのウェイトレスさんは、「こちらの○○ハンバーグは、(粗すぎってくらいの)粗挽き肉を使用していますので、肉本来の旨みがより感じられますよ。」
ってなふうに、「聞く」ことでさらに、その「○○ハンバーグ」が「どう、おいしいのか」をより知ることができ、さらに食欲は増すであろう。
そして、いざ「○○ハンバーグ」が提供された。ふっくらとした厚み、(たしかに、粗すぎるくらいに挽いてる)○○ハンバーグの、肉汁がジュワ~ってなりそうな美味しさを「見る」わけです。
そして、漂ってくる。その美味しそうな「におい」が。すでに、食欲ボルテージはピークに達する瞬間だ。
さぁ、いよいよ実食!(いただきまーす)「○○ハンバーグ」に白無垢に包まれていたナイフをいれ、フォークにさした時の伝わる弾力は「触れる」ことでわかります。
ジュージューと、出るわ滴るわの肉汁、嚙んだ時の粗挽きすぎる食感、舌の上ではしゃぎまわる旨み、などなどを「味わう」ことで、大漫喫。
さて、このエピソードを振り返ってみましょう。
「レストランでハンバーグを食べた」。それだけのこと。何の変哲もない、誰もが経験する「フツー」なことです。
ひとりの人間が、とあるレストランで、○○ハンバークを食べておいしかった。なんてことは、たしかに「フツー」なことなのですが、レストラン側にしてみれば、その「フツー」をお客さんに実現して頂くために、一苦労しているわけです。
五感体験
先ほどのレストランで、○○ハンバーグを食べた行為は、「体験」したことで、お客さんの満足は完結します。
入口でサンプルメニューを見る、もしくはテーブル席のメニューを見る「視覚」、ウェイトレスさんに、○○ハンバーグの美味しさを聞いた時の「聴覚」。
ハンバーグにナイフをいれ、フォークをさした時の「触覚」、美味しそうな臭いがプンプンする「臭覚」、味わった時の「味覚」。
○○ハンバーグを食べる、という当たり前の「体験」も、私たちは「五感」を総動員して最上の「五感体験」をするわけです。
入口のサンプル品を見るだけ、メニューを見るだけの「視覚情報」だけでは、物足りない。メニュー写真の「視覚情報」と、ウェイトレスさんの説明による「聴覚情報」だけでもやはり、物足りない。
「レストランでハンバーグを食べた」その体験は、見る、聞く、触れる、臭う、味わう。
つまり、視覚・聴覚・触覚・臭覚・味覚という五感を総動員で感じる事で満足する「体験」ができるのです。
顧客が、○○ハンバークを食べることは、「フツー」かもしれないが、レストラン側にしてみれば、いかに五感で「体験」して頂くかを考えなくてはいけない。
仮に、インターネットの「広告」を使って、来店していただくには、メニューの写真やキャッチコピーなどの「視覚情報」だけで、「○○ハンバーク」を食べた時の臨場感を伝えなくてはいけない。
そう考えると、「レストランでハンバーグを食べる」という行為も、伝える側にしてみれば、フツーとも言えないわけ。
感覚刺激の「体験」をどう伝えるか
私たちは、ほとんど意識することなく何らかの「感覚刺激」の影響を受けている。感覚刺激は人の知覚・判断・行動に強く影響を与えます。
リアル店舗での販売戦略として、消費者の感覚に訴えてモノを売っていこうという考えは以前からあった。店頭のBGMや食品の実演販売、試食などはまさに消費者の五感に訴えかけ消費行動を促進させる施策だ。
ですが、インターネット上のホームページや広告媒体を使った販促活動の場合、五感刺激をフルに伝える販売戦略はできるでしょうか?
いくら技術が発達したといえ、最新Web3.0ではまだ不可能。
ホームページやランディングページ、広告媒体に映し出されたものは、「見る」「聞く(動画とか)」事はできます。
ですが、その商品はインターネット上にあって、目の前に存在しないため、「触れる」「味わう」「臭う」ことだけは、どうしてもできません。顧客に伝えることはできません。
昨今では、商品の機能的な差別化は難しくなり、コモディティ化がすすみ、他者にない差別化を生み出す施策として、ユーザー体験、すなわち「経験価値を伝える」アプローチは必要不可欠です。
では、Webサイトで「五感」に働きかけるユーザー体験を設計するにはどうすればいいか?
先ほどの、○○ハンバーグを「視覚情報」だけで、満足して頂く体験を伝えるにはどういった施策が必要なのでしょうか。
感覚的な曖昧さを言語化する
商品やサービスの実感してもらえない、「触れる」「味わう」「臭う」を言語化して伝えなくてはいけません。
つまり、「感覚的な曖昧さを言語化する」ことが求められるのです。
ただ、言葉のチカラはどれだけ五感を表現しても先ほどのハンバーグを味わう「身体的感覚」を与えることは不可能。
しかし、「触れる」「味わう」「臭う」を鮮明に言語化できれば頭の中でのイメージを最大限に再現させることはできるはず。再現された脳内イメージは、未体験、未知の体験はワクワク感を与える。
すなわち、願いがかなうかもしれない、今かかえている悩みが解消されるかもしれない鮮明なイメージが大きいほど、「ほしい」「使ってみたい」期待感はより掻き立てられる。
そういった臨場感を「疑似体験」して頂くことがポイントで、いかに「感覚的な曖昧さを言語化する」できるかが重要になってくるのです。
例えば、「ピチピチと小さな泡がはじけるキリッと冷えたビール」の表現や、ステーキの「ジュージュー焼く」音を強調する「シズル感」が大事だと以前から言われています。
トントン、フワフワのような「擬声語」は曖昧な表現ではあるが伝わりやすいのが特徴です。
また、単調な文言を「具体的に記す」ことでイメージしやすい表現を出す事ができる。
「夕暮れに公園で座っていた」この文章からどのようなイメージがわきますか?
まず頭の中に夕暮れの公園が浮かび上がったと思います。公園と言っても、どの程度の大きさで、周りには何があり、どういった雰囲気?
地面は砂地で1本の街灯があり、ブランコや滑り台、砂場を連想される人もいれば、少し広めで噴水があり、ベンチやフェンスに囲まれた公園をイメージする人もいます。
よりイメージを想像できる具体的に記した文章にしてみます。
「夏の8月中旬、日が沈む夕方6時頃、団扇を片手に近所の砂場のある公園でベンチに座っていました。」
夏の暑い時期に団扇という表現で、人の服装は厚着ではなく薄着であること、公園には砂場しかないことも連想される。
さらに「ベンチに座っていた」シーンををより具体的に言語化してみます。
「ベンチの背もたれに背中を撫でるようにもたれかけ、両手両足を広げズレ落ちそうな状態で座っていた」
だらりとした寛ぎ状態で座っている事が想像できます。
「多くの人が満足した」
↓
「100人中94人が満足した」
「仕事が早く片付く」
↓
「サクサク仕事がはかどる」
「一つ一つ丁寧に作られた革財布」
↓
「日本の職人が一つ一つ丹念に手作りした革財布」
「ゆで卵の殻がむけるカッター」
↓
「ワンタッチでツルンとむけるエッグシェルカッター」
100%の言語化はできないが…
実際は視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の五感すべてを明確に言語化させることは不可能です。
例えば、タバコの煙と工場から立つ煙のそれぞれの特徴を生かして言語化せよ。といわれてすぐに言葉にはできません。
宇宙がどのくらい広いかと聞かれたら、「とてつもなく」「ものすごく」「めちゃんこ」など、ハッキリとしない曖昧表現でしか言語化できないものがあります。
感じる事は出来なくても言葉にできないこともある。100%全てを言語化すべきことはない。全てを言葉で表現できたとしても冒頭でのハンバーグを食した「体験」には到底どどかない。
ですが、言語化するチカラは必ずどこかで役に立つ。少しでも読み手に伝える事ができるようになる事は確かだ。
言語化する力は訓練次第
言語化できる能力は表現力を上げる効果だけでなく、様々メリットをもたらすといわれている。
一つに、感覚を言語化することで自己理解を深め実行力が上がる。
これはアスリートのメンタルトレの一種で、脳内の目標設定を具体的に言葉に置き換える、つまり言語化することで「どうなりたいか」が明確になり行動力が上がるといわれています。
言語化しようと試みること、もっとピタリとくる表現にこだわり続けること、微妙な言葉の違いを繊細に使い分けることで、自己理解が深まるだけでなく、他者を巻き込む影響力も高めることができる。
このように、「言語化できる能力」は私生活の面でも多様な効果を発揮するのです。
まずは感覚でとらえたものを、頭の中で言語化するイメージをおこなう。
「感動した」「刺激を受けた」というような表現を避け、きちんと「何にどう感動したのか」「どのような点が、どういう意味で刺激になったのか」ということを表現することを意識しよう。
重要なのは「どうしたか」「何があったか」ではなく「なぜ」「どのように」という説明の部分。
自分自身の経験や心情、感覚というものを、ありきたりな言葉や慣用句を避け、独自の言葉で表現できないか挑戦し反復することで、自分の中の言語に対する感覚が研ぎ澄まされる。
「量は質を凌駕する」。質を求めるには、テクニックを知る事ではない、凡事徹底の数稽古が質を高める唯一の方法ではないだろうか。