感情に支配されない、いつでも平常心でいられる格言

感情に支配されない、いつでも平常心でいられる格言

他人から注意や指摘されたことに、ついイラっとした態度をとってしまったり、逆に落ち込んでしまったり。

感情に流された言動をとってしまい、後悔することはありませんか?

「感情的になってはいけない。冷静にならないと・・・」と思うも、多くの人は感情の乱れを完全にコントロールすることができない。

普通、人は感情に任せて行動するということは少なく、自制心を持って自分の気持ちを抑えうとするが、感情に支配された行動を重視し、理性を一瞬失ってしまう状態のことをいいます。

なぜ私たちは感情に左右されてしまうのだろうか?あなたのまわりにも感情的な人がいて、一緒にいると疲れてしまうこともあるはずです。

感情の支配を受けている状態を「感情にひたる」または、「感情に溺れる」ともいう。

感情にひたるとは、何か物事を見聞きして、悲しんだり同情したりすることですが、何となくそうすることで自己満足しているようなニュアンスで、いいことがあると、歓喜の感情にひたるが、失敗した途端、挫折の感情にひたってしまう。

「感情にひたる」ことは、時に、今するべきことがわからなくなり、目的そのものが何であったかがわからなくなってしまうことさえある。

小さな子供は、さっきまで楽しそうに遊んでいたと思うと、突然泣き出したり、お菓子をあげたりすると、すぐに機嫌を直したりします。

子供がまだ、感情のコントロールができないため、喜怒哀楽の表現がまともにでてしまうからです。

しかし、人の感情とは本来こういうもので、環境の変化などにより、突然変異する生理反応によるものだとされています。大人になると多少たりとも理性によりコントロールされるが、子供にはそんなことができないため、ただ素直な表現をしているのです。

要は、振り回される感情は、全てが単なる生理反応に過ぎないということなのです。

汗をかいたといって悩む人はいない。それなのに、いらだちや焦り、怒りにはたやすく振り回され、悩んでしまう。どっぷりとその感情にひたってしまう。そんなのはおかしなことだと思いませんか?

情報過多になると感情に支配されやすい

無駄に情報量が多くはいってくると、ささいなことさえも気にし、感情に左右されやすくなることがある。それは、抽象的な視点で自分を俯瞰できなくなってしまうからです。

例えば、「人間」と「A君」を比べた時、A君は○○歳で、○○市に住んでいて、○○社の~という仕事をしていて、顔のどこにホクロがあって・・・など、「人間」よりも具体的な説明が細かくなる分、情報量が増えます。

つまり、「人間」と「A君」の間では、「人間」の方が「A君」よりも抽象度が高いとらえ方ということになる。

「A君」と「人間」では、「人間」の方が情報量が少なく、抽象度が高いといいました。

「A君は○○家の長男である」などの、A君の情報から一つ抽象度を上げると、「A君は兵庫県民である」となる。

もう一つ抽象度を上げると「日本人」となり、さらに抽象度を上げていくと、「人間」→「地球生物」となります。

○○家→兵庫県民→日本人→人間→地球生物の順に抽象度が上がっているということは、視点が上がっているということです。

別の例でいうと、「会社で働くあなた」から抽象度(視点)を上げていくと、職場のあなた→部門のあなた→会社のあなた→業界のあなた→日本国民のあなた→アジア大陸のあなた→地球上の人類のあなた・・・と視界がどんどんと広がっていきます。

なぜこのような、当たり前のわかりきったことをいっているのかといいますと、「抽象度が低いと感情に支配される」という意味を理解していただくためです。

抽象度が低いということは、視点が低く、余分な情報量の中の細かいことに感情が左右されやすくなってしまうのです。

抽象度がひくくなってしまうと、あなたは「会社でイライラさせられている自分」のことしか見えていない。つまり視界が狭くなっている。

イライラしている自分のことしか感じる事ができない、つまり、感情に支配されてしまっているのです。

反対に、抽象度を上げて、視点を高めて俯瞰していくと、「会社でイライラさせられている自分」→「会社で勤務している自分」→「○○業界で働く人」というように視野が広まっていくため、「自分と同じように○○業界で働く人達は、同じようなイラつくことがあるにちがいない」、とか、「自分よりももっと苦労している人がいる」など、自分の状態を高い視点で俯瞰できるはず。

人間万事塞翁が馬

つまり視点を上げて自分を客観視し、視界を広げていくことが重要なのです。

とはいえ残念ながら大半の人は、目先の情報に溺れ、支店の低い感情に左右されてしまいます。つまり、非常に抽象度の低い状態から、抜け出せなくなってしまうもの。

では、抽象度を上げて、高く俯瞰できる自分の状態に持って行けるようにするにはどうすればいいのでしょうか?

重要なのは、明確なゴールをシッカリと持つことです。あなたが目指すゴールは、ただ一つ、最も抽象度の高い位置に存在する。

ゴールとは、自分が重要だと考えている目的や目標のこと。

目的や目標が心の軸にしっかりとあれば、それに合わせて視点があが、抽象度が上がる。そうすれば、そのゴールの実現にマイナスな感情に振り回されることはありません。

たとえ感情が乱されることがあろうと、視点は常に、ゴールを目指すことだけを考える。うまくいったときも、うまくいかなかった時も、風向きが変われば簡単に吹き飛んでしまいそうな「感情」などに一喜一憂してしまうこともないはずです。

人間万事塞翁が馬」ということわざはご存知でしょうか?

読み方は、「にんげん(じんかん)ばんじさいおうがうま」で、座右の銘として用いられることが多いかと思います。

老人とその息子とが暮らしていた。
ある日、彼ら親子の馬が突然逃げ出してしまったため、周囲の人々は馬を失った親子を気の毒がったが、当の老人は、

「不幸かどうかは果たして分からんよ。もしかしたらいいことがあるかもしれない」と、平然としていた。

間も無く、逃げ出した馬は立派な名馬を連れて戻ってきた。不幸が転じて幸運となったために周囲の人々は親子の幸福を感心したが、老人はやはり平然として逆にこう言った。

「もしかしたらこれが災いのもとになるかもしれない。」

間も無く、息子がこの馬から落ち脚が不自由となってしまったため周囲は同情した。しかし老人はそれを見て「これが幸福を呼ぶことになるんだ」といい、
一向に動じなかった。

その直後、戦争がおきて、町の若者がほとんど戦死したが、足を折っていた老人の息子は、そのおかげで命拾いした。

という話が語源になってます。

要は、世の中に起きる悪いことも良いことも予期できず、それに振り回されてはならない、という格言であり、それはつまり、うまくいったときも喜びすぎず、油断しない、うまくいかなかときも、悲しみ過ぎず、気を取り直していこうということ。

目先の出来事で何が起きようと、いちいち感情に支配されてしまっても仕方がない。蚊にさされて、かゆいところがあるだけのこと。

目指すはゴール。その事だけを考えて進めばいい。

もし、何を目指していいのか、結局なのをするべきかわからない状態になってしまっているのなら、それは、あなたに何かしらの「欲」に支配されているかもしれません。

最も最適な方法はないか、このままで本当にいいのか、この先本当にだいじょうぶなのか・・・など、いろいろと悩んでしまうのは、結局、「幸せにならないといけない」「他の人を幸せにしないといけない」という、あなたの欲に左右されてしまっている。

もちろん、幸せになる事を願うその感情は大切だが、時に、その思いが強すぎると、考え方も行動も背負い込んだ荷物が重すぎて、前に進めなくなってしまいかねません。

そんな時は一度、損得に関係なく、責任とか、役目とか、そういった重圧なんてものを一切忘れ、今を必死になればいい。

すると、必ず光を差す時がきます。なんとかなるものなんですよ。結局は。

「人間万事塞翁が馬」の格言の通り、禍と思っていたのが幸運の原因になり幸運と思っていたのが禍の理由になり、さらにそれが幸運にもなる。