人生の半分を「尊(そん)」しているということ

人生の半分を「尊(そん)」しているということ

人生の半分を「損」をしている。

一度は言った事も、または、言われたこともあるはずです。

僕はビールは飲めるのですが、「焼酎」は苦手です。

職場の上司に、焼酎をこよなく愛する方がおりまして、「俺は芋が好きで、ぜったいロック派なんだ」

と、べつに聞いてもいないのに、別に知りたくもないのに、僕に、猛暑であるにもかかわらず、熱く「焼酎ソウル」を額に汗ばみ語りかけてくるのです。

いいじゃない。それもいいじゃないか。(と僕は思ったのである)それだけ焼酎が大好きなことは、素晴らしい一種の才能であり、僕には知らない未体験の経験ができているわけ。

だけど、芋・焼酎ロッカーの上司は、熱気が凄いステージの上で、汗をぬぐうことなく、僕にマイクパフォーマンスが始まったのであった。

「ショウ―チュー、え? 飲まねぇの?」 

「それ人生の半分は損してるで(~♪口笛)」と。

僕は思わず、(とりあえず汗ふけよって思ったけど)こう言い返してみた。

「え? 人生の半分を焼酎が占めてるんスか?」

なんだか、つい「ムッ」としたせいか、言われた言葉そのものにフォーカスして、あえてそこに問い詰め返してしまったのだ。

すると、上司は、まさかの「こんなこと」をいってきたのです。

「ちゃうちゃう。(~♪口笛)俺が言いたいのは、人生の半分を感動できないことってこと(~♪口笛)(~♪口笛)」

感動?!

「焼酎 = 感動」??

なんだ、この見下ろされた感は・・・

人生の半分を司るモノが、口に含んだ余韻を理解できない自分が悔しくいだけにすぎない「しょーちゅー」にコミットした僕がいて、そのずっと上空の概念から見下ろし、「悟り」がたりないといわれんばかりの上司との位置づけはなんなんだ。

おそらくだが、僕にとっての「焼酎」は人生にとって絶対ではなく、そんなことで「損」することはない。しかも半分も。(僕は今年で43歳になるので、半分なら21年と数か月間という計算になる)

本当の意味での「得」

「焼酎を飲めない = 損」という括り前提になってしまっていたのに対して、その上司は、こうだったのです。

「焼酎飲める = 得」。自分にとっての焼酎好きは、自分だけの「得」。他人にないその「得」が自分にはある。

損か得かを言いたかったわけではなかったのでしょうが、でもどうして「人生の半分は損してる」っなんて、別に言わなくてもよさそうな事をいったのだろう。

それは、もっと「感動」しよう。知らない世界に足踏み入れてもっと「感動」しよう。

感動体験をするには「意欲」だ。大人になるとその「意欲」が欠乏するから、子供のころのような「感動」が少なくなってしまってる。

だから、もっと、新しいことへの挑戦、自分には無理だと決めつけないで、せめて「やってみる」ことが先。

イイか悪いか、できるかできないかの判定は、どう感動したかを体験してから決めればいい。

だから、もっといろんな物事に目を向け、新しい見方を“ 得ていく ”。

これこそが、本当の意味での「得」なのだと。

そして、上司は最後にこう言い放ったのだった。

「だからさぁ、お前も焼酎のめよ。それで、おごってくれよ。(~♪口笛)」

(この上司は口笛吹くことが残念ながらクセになっているのです)

「人生の半分も損している」なんて言いぐさは、ハッキリ言ってタダの、言葉の綾(あや)。

人から「人生の半分も損してるぜ」っていわれると、大半の人は「イラッ」とする。

「ちょームカつく、テメェに人生を決められる筋合いはねぇ」

「人によって好みの選択は自由で、あれがあるから得、これがないから損するなんてことはない」とか。

わかる。その気持ちすごーくわかる。

だけど、僕たちは「感動」したい。感動体験を少しでもしたいのだ。

意図的に感動という感情をおこすことはできない。感動しろと言われても、本気で感動することは不可能だ。

感動を想起する二つの要因

旅行にいくと少なからず感動をする。それは、非日常体験という新しい出会いに遭遇するから。

誰かにプレゼントされて感動するのも、感動するドラマや映画もみるのも、本もマンガも、抑えきれないほどの高ぶる感動は、不意打ちされた「意外性」が元となっているのだろう。

たとえば映画のストーリーの中で、すごく「ムカつく」人がいたとします。意地の悪いことばかりをして、みんなに嫌われているようだ。観客の心にも、そのムカつく人を見て、たとえ役柄とはいえ、「何だコイツ?!」という気持ちが共通して芽生えてくるでしょう。

しかし映画の最後のほうになって、この「ムカつく」人がふとした優しさを見せるのです。まぁよくある展開だが。しかし、その瞬間に観客は「感動」するのです。

子供から大人まで愛され続けている藤子不二雄さんの「ドラえもん」には、ジャイアンというガキ大将がいます。

この普段は悪カギキャラのイメージが強いジャイアン。みんなも知っていると思うのですが、このガキ大将ジャイアンは、映画になると、頼もしくてかっこいいキャラになるという定説があるのです。

普段は悪がきでも、映画ジャイアンは、ライオンやワニ、巨大な敵にも立ちむかう男気を見せつけてくるのだ。(のび太の大魔境、おすすめだぞ)

スクリーンの前の人達は、その意外性に「感動」をする。

「ジャイアン、いけー」って気分は高揚し、「かっこよすぎるぜ、ジャイアン」ってなるんです。

ドラえもんの映画はみたことありますか?

もし、見たことがないのなら、「人生の半分以上は損している」。

というと、不興を買わせてしまいかねないので、そこまではいいません。

だけど、今だかつて経験したことのない体験は、少なからず「意外性」がある。その意外性に人は、感動するのである。

さて、人が感動する元となっているのは、「意外性」が大きく関与しているが、もう一つ、感動をブルブルと揺さぶるものがあります。

それは、「なつかしさ」というものだ。

昔懐かしい思い出の写真、子供のころに住んでいた時を訪れる、幼馴染に久しぶりに出会う。

だれしも「なつかしむ」体験をしたことはあるはず。懐かしい思いをすることが、言葉にできない「感動」を呼び起こすのです。

不思議なもので、「意外性の体験」と「懐かしい体験」は、いってみれば真逆の体験で矛盾しているように思えます。

なぜ、この真逆の体験が「感動」という感情をうみだすのだろうか?

それは、意外なことと、なつかしむことの間にある、「アタリマエ」の普段の日常で、感情がニュートラルになっているからなのです。

心に空白を。

美しい景色や花をみる。お庭の草木を昨日も見ているはずなのに、いつみても感動を覚えたりすることがある。

僕の母は、いつもこういいます。

(上司、ジャイアン、次は、「母」参上。)

朝山の麓に散歩にでかけて、「今日も心地よい気分になった。」家に帰ってから、庭の花をみてなんだかうれしくなる。

夕方になって、再び庭の花に水を上げたり、土いじりをしたりして「ほんと、花をいらうのが楽しくて仕方がない」と。

僕から見ると、朝の散歩の山の風景も、庭の草木や花も、キレイではあるが、それほどの変化はないように思うのです。

だけど、母は、まぎれもなく、毎回、そのつどに「感動」していることが伝わってくるのです。

なぜ、母は、いつも感動することができるのだろうか?

それはおそらく、「心に空白」を持たせているからではないだろうか。

心に空白を持たせるとは、言い換えると、心に余裕が常にある状態であること。

いえ、正確に言うと、山の綺麗な風景をみたい、庭の花をキレイだと感じたい。そういった「意欲」が、心に空白を意図的に作っているのではないだろうか。

人はよく、「今の私には、心に余裕なんて持てない」といいます。

仕事が忙しい、尽きない悩みが多すぎる。心に余裕を持たせるスキマなんてない、のだと。

それは、ウソ。

食べ物をお腹いっぱい食べて、もうこれ以上食べられない、というのはわかりますが、心がお腹いっぱいになることはありません。

心の空白、心に余裕を持たせることはいくらできるはず。

そして、感動は、その空白の部分にしか入ってはこない。なぜなら、忙し仕事に追われる、尽きない悩みがある、マンネリ化した毎日が退屈だ。こういった日常的な感情を、「アタリマエ」だと錯覚しているからだ。

「アタリマエ」の普段の日常で、感情がニュートラルになっているからなのです。

母のように、感動したい「意欲」を常にもち、自らをもって心に空白をつくろうとすることが、意外性やなつかしさで感じる「感動」という感情を生み出すのだろう。

そして、こういう人を「得」な人といえるのだ。

本当に幸せな人なのだ。

大切なのは「意欲」

ですが、こんな母でも、山の風景をみて、庭の花をみて、いつも感動しているわけではありません。

それは、変化を感じないと思えるとき。いくら心に余裕があり、美しい山の風景や庭の花がを見たいという意欲があろうと、人は、変化のない出来事には、感動しない生き物だとされます。

庭の花を見に行くと、そこにはいつも通りの期待通りの美しい花が咲いている。だけど、どうもそこには感動をあまり感じたりはしない。

やはり、感動を揺さぶるには、意外性のある未知の体験が必要なのだ。

意外性のある知らない事への体験こそが、感動を沸かせる元となるのは事実なのだろう。

然るに、母は、感動しないこともあれど、それは稀な事で、やはり、再び感動に浸るのです。

僕は、全く気付けないのですが、母は、ちゃんと庭の花や草木に「しかけ」をつくり変化を自ら設けていたのです。

そのわずかな変化を楽しみ、感動体験を自らつくり、心の余裕をもたせようとする「意欲」があったのです。

人は、意欲があると、創造する力がわいてきます。その想像した非現実沸き立つのだとリアルな現実というギャップが重なり合った時、感動という気持ちが沸き立つのだろう。

仮に、「人生の半分を損している」というのがウソでないならば、それは、「意欲を失いかけている」ことなのかもしれない。

意欲のないところに創造性は芽生えない。そして創造性のないところに、感動というものはやってはこない。

意欲は生命の進化を遂げてきた

「感動することをやめた人は、生きていないのと同じことである」

これは、相対性理論を発見した、二十世紀最大の天才科学者と言われているアインシュタインが残した言葉です。

僕たちがこれまで、この地球上で、「生命」という劇的な進化を遂げてきたのは、常に「創造を繰り返してきた」からだ。

新しいものをつくる、新しい形になる、そしてそのたびに新しい機能を獲得してきた。

今、僕たちが平和に暮らせるのも、歴史上でいろんな人達が意欲を持って創造してきたからなのだろう。

つまり、僕たちが「生きている」ということは、すなわち何かを「創造」し続けることなのかもしれない。

それはなにも、芸術的なことでなくてもかまわない。大そうなものを創造することではなく、日々の暮らしの中で未知なる体験を自ら進んでおこない、そしてその変化にもっと意欲的になることで、これからも進化し続けるのだろう。

アインシュタインが言うように、創造的であること、いろんなものに感動しながら常に新鮮な気持ちでいられることは、実は「生きること」、生命そのものだったりするのかもしれません。

大切なのは「意欲」。

意欲を持って日々の暮らしを送ることこそが、最も大切なことであり、人生の半分、いや、それ以上の「得(とく)」をすることでもあり、「尊(そん)」することでもある。

意欲的に感動する心の空白を自ら創ろう心がけることが、「生きる感動」を “ 説く(とく) ” カギといえるのだ。

それでも僕は、焼酎を楽しむ感動を、体験しようとはしないのであった・・・。