「自分を許す」「自分に思いやりをもつ」ことの本当の意味とその効果

「自分を許す」「自分に思いやりをもつ」ことの本当の意味とその効果

あなたは恐ろしすぎる映画とかは観たりはしますか?

あまりの恐怖さに、目をふさぐことさえできないほど震え上がる心境にさいなまれることでしょう。

だけど、そんな身震いさせるような怖い映画でも、テレビ放映のの特集番組だったとき、必ずCM(コマーシャル)が間に流れます。

そのコマーシャルっていうと、どうしてか、元気が沸きそうな明るいBGMとテンション上げ上げのものだったり、ほんわかとやさしい気持ちになりそうなものだったりしませんか?

あなたはニュースを見た時、殺害や事件、逮捕、被害などの暗い内容の報道が流れていたら、暗い気持ちになるか、「他人ごとではない」と不安を感じることもあるでしょう。

だけど、そんな痛みを交えた不安にさいなまれるニュースの合間に流れるCMも、なぜか必ずといっていいほど、元気いっぱいの明るいものだったりしませんか?

こんなとき、なんだかフワッと助けられ、ホっとしたりするよね。レスキューされたような感じになるよね。

特にホラー映画の恐怖感と間に流れる明るいCMのギャップが大きいため、より安心感を強く感じるでしょう。

AC公共広告機構のような、薄気味悪い感じのCMではなく、ファミリーでワイワイとドライブを楽しむ明るい車の宣伝だったり、キャッチ自体が元気を与えてくれそうなものだったりする。

なぜでしょうか。どうして、怖い映画や暗いニュースの間に流れるCM(コマーシャル)に限って、明るいものがチョイスされているのだろうか。

たまたま?それとも怖さ感情が募った後に見るからどうしても明るく感じてしまうのか?

それにですよ、うんざりするような暗いニュースを見た後に、企業は売りたい商品の宣伝を流すのだろうか?

暗く不安な状態になっている視聴者が、商品イメージを頭の中に悪いイメージとして結びつけてしまわないのだろうか。

だいたい残酷な殺人事件やテロ攻撃などの脅威ニュースを観たあとに、ショッピングモールのセールに行きたくなる人なんているわけないとは思うけど・・・。

確かに怖い映画、暗いニュースの合間に明るいニュースでホッとされてはくれるが、そもそもCMって宣伝でしょ?

広告宣伝って売るために作られ視聴者の買いたい意欲をかきたてるものだったりするはずでしょ。

だけど、暗い映像 → 明るいCMという関係性はまちがいなく成立しているようだ。ほんとに「たまたま」なのでしょうか?

いえいえ、「たまたま」じゃないんだなこれが。「あえて」だったりするんだなこれが。

案外知らない人もいるかもですが、これこそが、テレビ広告の「脅し(おどし)作戦」なんです。

僕たちは、暗いニュースをみると、他人事とは思えないと感じ、無意識に不安を感じ、訳もなく重苦しい感じになったりします。

怖いホラー映画やサスペンスドラマを見た時、恐怖のあまり、何かにすがりたい、救われたい、明るいことに触れて、怖さを打ち消そうとします。

それで、何でもいいから安心感や安らぎを与えてくれるもの、気持ちが明るい感じさせてくれるもの、お守りのようなものにすがりたくなる心理が働く。

これは「恐怖管理」という心理現象のなせる業で、楽しそうにドライブしている車が欲しくなることがあったり、テンションが高いマックの明るいCMをみて、ハンバーグが食べたくなったりするのです。

まさか、明るいCMをみて、ホッとさせられることはあっても、その宣伝効果でモノを買おうとまでは思わないって思うかもしれません。

ですが、人は恐怖体験をすると、その恐怖感情という痛みを逃れたいがために、財布のひもが緩み、購買意欲が高まるとされているのです。

ホラーとか暗いニュースの後に流れる明るいCMで癒されるというよりも、痛みを伴う嫌な感情を欲望で掻き消そうとするんですね。

何かにすがりたいとか、救われたい感情になると、人は「誘惑」に流されて「モノを買う」という欲望に走ってしまうのです。

恐怖体験の間の明るい宣伝で、購買意欲がかきたてられるだけではなく、近くにあるお菓子に手をつけたり、すぐにでもありつけそうな「誘惑」にすがりつきたくなるのである。

今なら、すぐにスマホを見る人多いでしょう。スマホで何でも簡単にモノを買う事ができます。明るいテレビCMのまどわされてつい買っちゃった、なんてことはあったりしませんか?

嫌な体験からくる「なげやり感情」の恐怖

恐怖体験により、人は何かにすがりたくなり、誘惑に流されてしまいそうになるといいました。

ですが、中にはホラー映画が大好きな人もいて、恐怖の疑似体験に、むしろワクワクしたりするともいわれてる。

そんな「マゾ」な要素をもった怖いもの好きな人に、先ほどの明るいCMによる「脅し作戦」はほぼ通用しません。

ですが、大抵の方は、ホラー映画やサスペンス、重くて暗いニュースをみると、恐怖を感じたり、イヤな気持ちになったりします。

厄介なのは、なんどもなんども暗いニュースを見続けてしまったりすると、自己嫌悪の陥る可能性があるといわれている。

自己嫌悪になってしまうと、自分はダメだ、どうせできっこないとか、自分を厳しく批判したりします。

全ての失敗を自分のせいだと思い込み、絶望したり、罪悪感をおぼえたり、恥ったり、怒ったり、打ちのめされたりします。

そんなよくない感情がいきつくところは、「もうどうにでもなれ」って思ってしまう事が非常に厄介なのです。

「どうにでもなれ」になってしまうと、たとえば、ダイエット中の人が、つい、一口お菓子をつまんでしまうことで、ひどく落ち込み、もうダイエット何てしても無駄だと投げやりになってしまう。

「もうどうにでもなれ」と開き直り、一口のつもりが、勢いで全部食べちゃったってなってしまう。

前の夜に飲みすぎたせいでひどく落ち込んだ人は、その日の夜も、また翌日の夜も飲みすぎてしまうことがあるのは、罪悪感からの反動で、「どうにでもなれ」と理性はぶっ飛び、逆に飲まずにはいられなくなり、あげくはアル中になるとさえいわれています。

「どうにでもなれ」になってしまう原因は、ちょっとしたつまづきで、それが即、大きな失敗につながると思い込んでしまうからだとされてます。

キケンなのは、最初につまづいたときに、自分を恥じたり、後ろめたく思ったり、自制心をなくしたり、希望をなくしてまうことです。

いったん悪循環にハマってしまうと逃れられず、そのまま転げ落ちてしまうとさえ思ってしまう。

すると、またしても大きな失敗を招き、またしても益々みじめになり、またしても自分を責め、またしても「誘惑」に流されるという無限の負のスパイラルに陥ってしまう恐れがあるとされています。

暗い情報を浴びてしまうがために

昨今、テレビやスマホで、SNSに流れる報道には、どうも暗くネガティブなモノが多いように感じるがどうでしょうか?

暗いニュースや残酷な報道に、ワクワクしますか?しないでしょう。でも、つい見てしまうし、気になってしまうよね。

マスコミも自分達は、正義のように報道してはいるけど、ながいものには巻かれろ的な感じがしてなりませんか?でも、一向に報道をやめたりはしないよね。

これは、ネガティブなニュースをあえてチョイスし、メディアがこぞってしつこいほどに、どのチャンネルも悪いニュースを報道する理由は、ただ単に「視聴率を稼げる」からだったりする。

これは人間独特の心理には、良い事よりも、悪い事の方が臨場感が高く恐怖を煽られるので「つい見てしまう」悪い話の方に耳を傾けてしまうという心理があることを熟知しているです。

18時くらいからやっている今日のまとめ的なニュース番組であっても、犯罪やスキャンダル、経済危機と言った悪いニュースは時間をかけて、下手をすると専門家を呼んでより詳しく、より悲惨に報道する。

だが、良い話は簡単なVTRにまとめられ数分間さらりと流されて終わり。この事から見ても、悪いニュースの方が視聴率が稼げるという裏付けとなるのである。

テレビだけではありません、SNSのバズり騒動も、同じことがいえる。ただ単にアクセスを集めるために、ワザとバズらせる作戦だったりするのだ。

僕たちは、そんな騒動を見てしまうがために、「すごくPV稼いで儲かってるんだろうーなー」とか、どんでもない「ねじれ」の捉え方をしてしまう人も多々いるはずです。

暗いニュースを報道してしまうのは、いかし方がないとは思うのですが、「ちょっとしつこくねーか」って思う事がある。

不倫や不祥事に関する報道も、「そこまで追い詰める必要あるか」って思う事がある。

なんかこう、今はネット普及により、誰でもいいたいことが書き込みできるようになってがゆえに、ちょっとしたことでもワーッて世間の話題が沸騰してしまう。

それも一瞬で。そんでもって一瞬で鎮静し、あの話題どうなった?ってなる。これって、いいのか悪いのか。

いい報道や、明るい書きこみがワーッてなるのならまだしも、現実はそうではないように思えたりするが、どうでしょうか?

最近はネガティブな人が昔に比べると多くなった、引きこもりになる人が増えたといってはいるが、結局はその便利なプラットフォームの使い方を間違ってしまっているからなのではないだろうか?

僕が一番残念に思えることは、テレビの報道にしろ、ネット騒動にしろ、これらはあくまで、リアルな体験ではなく、疑似体験であり、いってみれば、画像や画面の中でおきているバーチャルな世界にすぎないはずが、心の中にまで浸食してしまっていることです。

リアルな現実の自分は、もっと別の感情をしっかりと持っているはずで、画面内の騒ぎに流され、自らの希望や夢を見失い、今そこに立っている本当の自分、本当の人生をぶち壊されてしまっているように感じるのだ。

ちょっと極端ないい方ではあるが、実際、他人ごとではないと思える方もいると思います。

ですが、他人を変えることができない。世間を変える、日本を変えることは簡単ではない。

それに、自分の考えはあくまで自分だけの価値観でモノをいっていることなので、それが正しいわけでも、正解でもないことは十分承知しています。

だからこそ、自分のことは自分で「責任」を持つことが大事。周りの騒ぎに惑わされず、自分の「目的」は何かをしっかりと持っていたいですね。

「どうにでもなれ」からの脱却は「自分への思いやり」がカギ

またしても、話がひとり歩きしてしまいましたが、暗いニュースは報道を見続けてしまうと、あげくは「どうにでもなれ」と投げやりになる恐れがあるといいました。

なげやりになるということは、すなわち自己批判のなんでもなく、モチベーションの低下、自己コントロールの低下を招きます。

やる気や望む力を失い、自己嫌悪になってしまうこともあるため、暗い報道をなるべく見ないようにする事も然ることながら、「どうにでもなれ」という感情をあらためる努力もやはり必要です。

そこで、失敗してしまった、つい誘惑に負けてしまった自分を厳しく責めるのではなく、「自分を許す」「自分の行為を認める」「自分にやさしくする」など、 “ 自分への思いやり ” が大切だったりする。

自分への思いやりなんて言っていたら、自分を甘やかしてしまう事で、それこそさらに誘惑にさいなまれ、良くない報道に飲み込まれてしまうのではないかと思ってしまうでしょう。

ですが、よく考えてみて下さい。

周りの悪しきことに影響をうけ「どうにでもなれ」になってしまうのは、自分が何かに失敗した後に感じる「嫌な気持から逃れようとする反応」と同じことですよね。

その失敗による罪悪感や自己批判に、そもそも悩まされなければ、逃げる必要もないわけです。当たり前のことをいってますが。

だけど、失敗したり、どうにでもなれと、自己批判するというのは、ある種の「逃げ」であり、どうして失敗したのか、なぜ投げやりになってしまったのかを、冷静に考えることを「逃げた」ことになる。

つまり、自分を厳しく責めるのではなく、「自分を許す」「自分の行為を認める」ということは、“ 責任感を持つ ” ということです。

自分に優しくして、自分に思いやる気持ちを持ち、自分を行為を認め、許すことは、甘やかしてしまう事ではなく、冷静に判断をするための「責任感」が増すことなのです。

だからこそ、失敗をしても、投げやりになっても、自分を責めて逃げたりせず、犯してしまった行為をちゃんと受け止め、自分を許すという「自分への思いやり」を持つことが大切なのです。

繰り返しになりますが、「自分を許す」というのは、甘えではありません、「責任を持ち冷静に判断をもてるようにしよう」ということです。

この辺を大抵の人は勘違いをしてしまっていたかもしれません。

誰だって、周りに影響され、感情を犯されてしまう事はよくあることです。そんな自分を責め「どうにでもなれ」と投げやりになってしまうこともあります。

ですが、そのあとの対処がすごく大切で、いかに自分の感情に「責任」を持てるかが問われる。

自分を責めつづけ、「どうにでもなれ」のスパイラルに陥り、そこから脱出してやろうとするのを諦めるか、それとも、「自分はちがう」「せめて自分だけは周りの硬くて冷たいコンクリートの上を走ったりはしない」と、自分の信条に責任をもとうとするか。

自分の「決意」を守るにはどうすればいいかは、おのずとわかってくるはずです。

自分を責めたりせず、「自分へ思いやりをもつ」とはこういうことなのではないだろか。今一度、原点に返って考えてみようよ。