自分に「ないモノ」を数えるより「あるモノ」を数えよう

自分に「ないモノ」を数えるより「あるモノ」を数えよう

他人と自分を比べて、一喜一憂してしまう。

人は誰しも、他人の持ち物を羨ましがったり、自分がそれを持っていない事をくやしがったり。

いろいろなモノを手に入れ たい……。

そんな欲望も、幸福感につながる重要な要素だと考える人も多いはず。

誰だって「ないモノねだり」の感情はある。「ないものねだり」をするのは子供だけではありません。

隣の芝生はいつだって青く見えるもので、大人だって自分にないものに対して憧れを抱くもの。ないモノを欲する感情は本来人が持つ本能とされます。

しかし、注意しなければならないのは、「なぜ、ないモノが欲しいのか?」ということです。

おそらくそこには、染みついた資本主義の思想の要素が含まれていると予想できる。

人からうらやましく思われたい。すごいと思われたい。自分の地位や名誉……。

ですが、仮に、今までなかったものがいざ自分のものになると、今度はまた別のものに憧れを抱くようになります。

どこまでも、どこまでも、「ない・・」「ない・・」は限りなく続くのです。

「ないモノねだり」は行きつくゴールがない

そもそも、自分にないモノを欲しがるのはどうしてか?

仮にそれが、「満足」や「幸福」だとします。

だが、その「満足」が得られたとき、その後一切新たな「満足」を求めないという保証はあるだろうか?

100万円を手に入れると200万円が欲しくなる。

200万円を手に入れると、500万円がほしくなる。

500万円を手に入れると・・・

どれだけの満足を達成すれば「幸福」を感じれるのであろうか?

わかりますね。気づいていますね。探せば探すほど、湯水の如くいくらでも出てくるのです。

そして、それを探し求めて意識している間は一生「幸」にたどり着くのは難しい。

なぜなら、足りない、持っていないと思っていることと、幸せでないことを結びつけてしまっているからです。

自分にないものを数える事をやめる

ないものねだりをしている時というのは、自分には何も取り柄がない、という思いに囚われてしまいがちですが、何もない人なんていません。

ないものを探そうとしてばかりいるから潜在意識に「自分には何もない」がインプットされてしまうのです。

私たちは自分にないものを外部から10個も20個も必死にインプットしようとしますが、どれだけインプットしても、アウトプットしない限り何の役にも立ちません。

いってみればそれは「自己満足」に過ぎないということです。

それよりも、今自分にあるモノで行動をおこすことを「自己実現」という。

自己実現は、「自分の夢を叶えるための自己成長」のような意味で使われることがあります。もしくは、望みがかなった状態そのものだと思われがちだ。

ですが、「自己実現 = 成長する」ではありません。それは「自己成長」なのです。

自己実現は、「ありのままの状態」で行動をおこすことをいいます。

私たちが努力をして目指すのは「自己成長」です。成長を望まない人はいません。

ですが、自己成長をするためには「自己実現」が根底にない限り不可能なのだ。なぜなら、人は行動しない限り何も変わらない、昨日までの自分を維持しようとするからです。

行動を起こすとはどういうことですか?自分にないモノを探し続けることですか?それとも、今あるモノで、配られたカードでできる限りの行動を起こす。すべてはそこから始まるのではないでしょうか?

つまり、ありのままの状態に自信を持って行動することが「自己実現」であり、優先的に自己実現することに意識を向けることで、ようやく今までなかったモノを手に入れるチャンスを掴めるのです。

自己実現なしに、自分にないモノを求めることで、夢み心地な自己満足になってしまってはいけない。

「感謝」することで自分にあるモノに気づける

足りないものに意識を向けるのをやめよう。

ないモノを数えるのではなく、今自分に「あるモノ」を数えよう。

誰もが何かしら良いところを持っている。自分にないモノを探すことを今日からやめて、自分にあるモノを探すことが大切です。

ですが、そういわれたとしても、人は自分に「あるモノ」を見つける事ができないかもしれません。というより、見つけようとしないからともいえます。

なぜか?それは、今、あるモノを大事にし、それがあることに「感謝」しなくてはいけないということ。

感謝の気持ちが足りないから、自分に与えらたモノに気付きずらくなってしまっている。

平凡な毎日に飽きてしまい、何かを求めるあまりつい、「あるモノではなく、「ない」モノに意識を向けてしまいがち。すでにたくさん持っているのに、それは「あたりまえのこと」と考えてしまう。

感謝するとは、他人から何かをしてもらったからするのではなく、今あるモノの状態にありがたみを感じることです。

今あるモノに感謝する気持ちが芽生えると、それはちゃんと潜在意識に刷り込まれ、自己肯定感をいい状態にしてくれます。

「会社に出勤するのはあたりまえ」では、「今日もしんどいなぁ~」「何となく休みたいなぁ」など、当たり前だと思ってしまうとつい「感謝」の気持ちを忘れ、潜在意識にネガティブ感情を刷りこんでしまいます。

ですが、世の中には、仕事をしたくても、できない人もいます。

たとえば、就職活動で仕事が決まらない人、職業安定所で仕事を探しているものの、仕事が見つからなかったり面接で落とされたりして、もどかしい日々を送っている人。

無職では、ローンやクレジットカードの契約もできません。仕事ができないのは本当に厳しい現実なのです。

家庭や健康に事情があって、仕事をしたくてもできない人もいます。育児や介護の事情もあれば、けがや病気といった事情もあるでしょう。

就業の意思も意欲もあるにもかかわらず、事情があって仕事ができない現実は、悔しいに違いありません。

あなたは今、定職に就いていますか?自分の仕事がありますか?もし仕事があるなら、それは「あなたにあるモノ」です。

「仕事があるのは当たり前」と思うかもしれませんが、それを「当たり前」だと勘違いしてしまうから「ないモノねだり」に陥ってしまうのではないでしょうか。

自分にあるモノは、何も特別な才能や人とは違った個性的なことばかりではありません。

自分にしかないものを「あるモノ」だと思っているのは単なる自己満足です

他の人がもっているから自分もあって当たり前。それはいかに錯覚であるかを気づかないと、永遠に自己成長は愚か、自己実現さえもできないかもしれません。

当たり前だと思っていることに「感謝」しよう。そうすれば、必ず「自己実現」できます。

感謝をするとは、「他の人が持っていないものを自分は持っているから感謝する」ではなく、「他の人持っていないものを自分は持っていることに気づけた」事に感謝しなくてはいけない。

その思いで行動する自己実現を「人に与える行為」という。

「ないモノねだり」をやめると才能に気付く

だが、ないモノを欲することは見方を変えれば「向上心」があるともいえます。

向上心を持つと人は努力をする。それにより、学びもあるし、気づきもあるでしょう。

だとすれば、ないモノを求めないことは向上心に欠けるのか?学びも気づきもえられないのでしょうか?

私はこう考えます。

向上心がある、学びや気づきを得るために必要なのは、「夢中」という心境があるかどうかだと私は思う。

考えてみて下さい。今あるモノに感謝する心境よりも、ないモノを欲する心境の比重が多いとする。

心の中は「もっと、もっと」で埋め尽くされてしまいます。「もっと、もっと」は「ない、ない」と同じこと。

つまり、「もっと、もっと」と思い続けている限り、「ない」「足りない」という欠乏の現実をわざわざ自分で創りだしているといえる。

つまり、満ち足りない思いに「夢中」になり、欲求と劣等感の中を彷徨い這いずりまわってしまいかねないということ。

逆に、今あるモノに感謝し、「十分にある」という心境になると、安堵感に浸るのではなく、自分の持っている才能の芽に気付き、それに磨きをかけようとします。

そうやって磨く長所がどんどん武器として変化していく。自分の力を信じきるためには、まず自分の才能を数える必要がある。まだ自分でも気がついていない才能があるのかもしれません。

しかし、その才能の芽は自分で発掘しない限り、決して他人から発掘されることはない。今までは「ないモノ」ばかりに目を向けている人でも「あるモノ」に目を向けてみることで今までにない発見があるはずです。

ないものねだりの感情は、手に入らないと分かっているが故に出口がなくて苦しいものです。そんな苦しみに絡め取られるのではなく、もっと自分に目を向けてみましょう。

「今あるモノの価値に気付く」ということは、「自分の才能や価値に気付く」ということです。