一生懸命になることに必死になり苦しんでませんか?

一生懸命になることに必死になり苦しんでませんか?

一生懸命って何ですか?

がんばること?真剣に取り組むことでしょうか?

とりあえず辞書で調べてみたんだけど、ちょっとびっくりしました。

辞書には、「命をかけて物事に当たるさま」と記されてました。

確かに「懸命」は命を懸けるという意味で、「いのちがけ」と解釈できる。

じゃぁ「一生」は、生まれてから亡くなるまでの間。つまり生涯を意味するわけで、「一生懸命」とは、生きることは命がけである。となる。

いやいやいや。なんとなくわかる気もするけど、なんだかしんどいよ。

そこで、一生懸命の語源を調べてみました。

すると、元々は「一所懸命」だったのが、「一生懸命」になったといってます。

そういえば、「一生懸命」と「一所懸命」とではどちらが正しいのか、違いは何かと思ったこともあったような気がします。

知らない方は気になるでしょうから、スマホ検索する手間を省くためにここで解説しておきます。

先ほども言った通り、「一生懸命」は、本来は「一所懸命」でした。

一所懸命の「一所」とは、一ヵ所という意味です。懸命は、命をかけるですね。

つまり、一ヵ所に命を懸ける。

これじゃ意味わからん、ですね。

詳しくは、次のことを表してしるんです。

「昔、武士がもらった一か所の領地を命がけで守り、それを生活の頼りにして生きた」というのが「一所懸命」だとされてました。

これが、いつの間にか「命がけで守る」が「命がけでやる」という意味に転じ、さらに「一所」がいつの間にか「一生」になっていて、今では、「一所懸命」よりも「一生懸命」と表現される場合が多くなった。

「一所(一ヵ所)」がいつの間にか「一生(生涯)」になったっていうけど、全然意味が違ってるやんけ。

一生懸命って「いのちがけ」な苦しいこと?

まぁ、一所懸命が一生懸命になった言葉のいきさつはいいとしても、一生懸命の意味が、「命をかけて物事に当たるさま」というのはどうかと思う。

例えば、子供は遊びに一生懸命です。無我夢中になって遊んでます。

この、一生懸命に遊んでいる姿を、「命をかけて物事に当たるさま」に見えますか?

見えないですよね。

僕には、「楽しんでいる」ように見えますけど。

僕の子供の頃の記憶をたどる限り、遊びは適当よりも、一生懸命の方が楽しかった。

一生懸命野球するのが楽しかった。一生懸命に川で泳ぐのが楽しかった。

むしろ、適当に遊ぶという感覚はなくて、楽しむために自然と一生懸命になってました。

ところが、ところがです。

大人になると、一生懸命に「理由」を必要と考えるようになっていたんです。

一生懸命にやってどんなメリットや得があるのか、こんなに一生懸命になっていみがあるんだろうか。

などと、一生懸命になることに「理由」を必要とし、さらに、その「見返り」さえもほしくなっているのです。

子供の一生懸命に「理由」もないし、「見返り」も求めてはいません。ただ「楽しめたらいい」だけだから。

それは、「遊びだから」ということもありますが、でも「一生懸命」であったことは確かです。

そこで思ったのですが、人は、「一生懸命を楽しむ感じる」のではないか、ということです。

物事を適当にしてしまうと、楽しめないから、一生懸命になって楽しむようになってるんじゃないかと思うのです。

つまり、「一生懸命にならないと、本能的な楽しさなんて味わえない」のではないか、ということです。

一生懸命になると楽しいし、楽しむためには一生懸命になるべき

僕たち大人たちは、一生懸命を、命がけとまではいわなくとも、もっとがんばる、これじゃダメだもっと必死にならなければならぬ。

とかで、楽しむどころか、苦しんでいると感じてしまいがちです。

もともとあった「一生懸命を楽しいと感じるプログラム」をわざわざ書き換えてしまっているのではないでしょうか?

どうして、子供の頃は一生懸命を楽しむことができるのに、大人は苦しんでいると思てしまうのか?

それはおそらく、僕たち大人は、「結果」を楽しむことばかりを求めているからではないだろうか。

苦しみを味わいながらも一生懸命になるのは、その見返りとしての「結果をだした時の楽しみ」のため。

子供は一生懸命の状態(プロセス)を楽しむことができるが、大人は結果に対する喜びのために、その犠牲として一生懸命を投資しようしてします。

よく、考えてみてください。

結果の「楽しい」は、その結果が出た時だけの刹那なもの。

必死こいて一生懸命にやった、ちゃんと結果もでた。うれしい!。

あれ?それだけです。結果の喜びに楽しんでいられるのは意外と短くて、あまりにも刹那なものだったりする。

もちろん、その一瞬の喜びのために、多くの時間を犠牲にして一生懸命に苦しむ道のりをあえて選択することもあるかもしれません。

しかし、結果は必ず出るとは限らないし、結果がでるまで苦しみ続けることになります。

苦しい状態とは、心の状態は決して良くなため、パフォーマンスは下がり、冷静な判断ができないため、ますます結果は出にくくなります。

まさに、負のスパイラルに陥ってしまう。

そして、仮に結果が出たとしても、楽しいのはその一瞬だけで、その数秒間後からまた苦しみがはじまってしまうか、もしくは燃えつきてしまうかのどちらかです。

苦しんでいればいいことがあるなどというのは妄想です。

一生懸命になる、頑張ろうとする人の多くは、「こんなんじゃダメだ!もっと必死にならないと」とかで自分を奮い立たせようとします。

なんだか、気持ちを高揚しているように思うのですが、あまりに「もっともっとがんがらなくては」になると、むしろ気持ちを痛めつけています。

痛めつけた気持ちをリセットするために、さらに一生懸命になる。

一生懸命になりすぎて、自分を痛めてしまい、その痛みをリセットするために一生懸命になる。

つまり、「一生懸命にならなきゃ」という自分の気持ちをコントロールしようとするために、一生懸命になるという、本当の目的を見失ってしまうのです。

結果を出すことが目的なのに、結果を出すために一生懸命になるべきだという気持ちに一生懸命になってしまうのは、フォーカスすべきところが完全にズレてます。

やっぱり、一生懸命になるということは楽しむべきなのではないでしょうか?

そのためには、「良い結果」という期待を求めすぎなことも必要です。

結果がどうなろうが、とにかく、今は一生懸命になる。すれば、本能的な楽しさを感じることができるはず。

人は、どうしても楽しむことと、一生懸命になることとを別々なものとして、分けて考えようとしてしまいます。

「今日は一生懸命に仕事したんだから、ご褒美に飲みに行こう」とかの会話は典型です。

だけど、一生懸命に仕事することは、ご褒美が必要なほど辛いことなのだろうか?

辛いプロセスの一生懸命に多くの時間をかけるくらいなら、一生懸命に楽しんだ方がよさそうです。

そのためには、「ねばならない」という気持ちを捨てないといけません。

「ねばならない」気持ちになるということは、「良い結果をださなくてはならない」と思ているからです。

なので、結果がどうなろうが、とにかく、今は一生懸命になる。すれば、本能的な楽しさを感じることができるはずです。