今日、「星の王子さま」という小説を読みました

僕はほとんどといっていいほど、本を読まない。
というより、読書自体が苦手なんです。子どもの頃からずっと。
そんな読書ムリな僕が、今日、「星の王子さま」という小説を読んでみた。
理由は、「何となくこれならオレにも読めるんちゃうか」って思ったから。
完全にナメてかかっていますが、正直なところ、読んでみると、ナメてました。
何をナメていたかというと、読みやすい読みにくいとかでもなく、むつかしい用語があるとかないとかでもなく、読むんだ人によって、その内容の解釈が違うんだなってすぐにわかったこと。
汎用性があるというか、どう捉えるかは、その人のその時の心の状態でも違ってくるだろうし、人それぞれの価値観でも違ってくる。
誰にでも楽しんでもらえ、何か気づきを得られる内容で、本当の意味での超ロングベストセラーなんだと思った。
ストーリーの内容をどう捉えるかは人によりけりで、それぞれで楽しんでいただきたいのですが、初めて読ませていただいた僕が今日、すぐに気づかされたことを、ひとつだけ書いてみようと思います。
尚、星の王子さまを、「まだ読んだことねーよ」って人がいらっしゃいましたら、ネタバレは一切していないので安心ください。
見えなくなった「素直な心」
「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目には見えないんだよ」
この文言だけを読むと、「目に見えることは事実であったとしても、真実ではない。素直な気持ちで自分自身がどう感じたかを大切にしよう。」ってな解釈になるかもしれません。
「星の王子さま」を読んだことのある人も、ない人も、この一文だけを読んで、どう感じ、どう捉えるだろうか。
僕の解釈について述べる前に、すこしだけ「人間関係」について、少しだけお話をさせてください。(またその話かよっ、て話です)
人は誰だって、人間関係にいつも振り回され、疲れ果てている。
他人によく思われたくて、そのくせ自分自身はどうしたいのかわからない・・・。
僕たちは、テクノロジーの進化によるインターネット技術のおかげで、いつでもすぐに連絡や情報交換などができるようになった。
つまり、いろんな人といつでもどこにいてもやり取りができることであり、「つながり」のようなものを感じとり、人間関係において広く、より複雑さは増していった。
だが、その結果「人間関係がすべては決まる」という、暗黙のルールに強烈に束縛され過ぎてしまっているように思えてならない。
いつでもどこでも人とのやり取りができるということは、いつも「他人を気にする」ということになる。すでに多くの人はそうなっている。
他人が何をしているか、他人にどう思われているか、あの人の投稿が気になって仕方がない、時間があればついついSNSチェックばかりしてしまう・・・
「いいね」やコメントをたくさんもらう事ばかり張りきってしまい、タイムラインに投稿したが「いいね」があまりつかなければ「友だち少ないって思われるかも」って焦りを感じたりもしてしまう。
じつは、SNSの魅力は、多くの人とのつながりで様々な情報を得ることにあるのではなく、自分の投稿がいかにレスポンスされたかどうかに委ねられているのだ。
反応があればうれしくて、なければモヤモヤ感が募ってしまう。
極論を言ってしまうと、SNSは情報交換としてのツールではなく、「人の心の探り合い」なのかもしれない。
スマホひとつあれば、いつでもどこでも他人とつながり、楽しいことをシャアできる時代だ。
だけど、なぜか空虚な気持ちは消えてはくれない。
それどころか、その虚しさを隠そうと安易なつながりを求めてしまい、蟻地獄のような負のスパイラスにハマってしまうことさえあるのだ。
なぜなら、「他人の目」が全ての価値基準になっているのだから。これでは、いつも誰かに監視されているのと変わらない。
そして、そんな表面的な付きあい方が当たり前になってしまうと、他人の発信はあなたの心の奥にまで侵攻してくるため、どんどん「自分」というモノを見失っていくのだ。
これでは、ハッカーに乗っ取られているのと変わらない、ネットウイルスに感染しているのと何ら変わらないではないか。
他人が心に居座っている限り、あなたは自分と向き合う時間を失うだけ。
自分が本当にするべきこと、したいことと向き合えないのだから、人生そのものが他人のものになってしまう。
使い方が少し間違っているだけなんです。間違った使い方を、ついやっちゃうだけなんです。
確かに人との関わりなしでは生きてはいけない。すごく大切なことです。
昨今の自然災害の対応において、SNSにより発信される情報を上手に収集・分析し活用することにより、避難指示や被災者への支援等に関し、より効果的な対応に繋げることができるようになった。
多くの方の投稿に寂しさを癒され、励まされることもある。それだけの力がSNSにはあるのです。
外ではなく内側に目を向ける
「今日、星の王子さまを読んだ。」
話をココに戻しますね。
「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目には見えないんだよ」
この、出会った名言は、僕の心にスーッと染み込んできた。
僕の解釈は少し違っていて、「自分の意識を内面(心)に向けるか、目に見える外面(他人が何をしているか)に向けるか」というものです。
先ほど、SNSは情報交換としてのツールではなく、「人の心の探り合い」なのかもしれない。といいました。
人の心の探り合あいになってしまう虚しさは、結局、他人にしか目を向けようとしないから起こるのです。いえ、SNSというツールが人をそうさせてしまったのかもしれません。
人の心の探り合あい、という虚しさを消すためには、自分の意識を自分の内面(心)に向けること。
他人という「外側」にばかりに目がいってしまうがために、自分という「内側」に目を向けることが蔑ろ(ないがしろ)になってしまっているのでは?ということです。
SNSという広いようで狭い世界は、現実とはまるで違うバーチャルな世界にすぎない。そんな外界ともいえない、二次元と三次元の間に位置するネット上の空間に縛られていては何が本物で何が本物でないかの見極めがわからなくなってしまう。
だからこそ、自分の意識を内面に向けてみよう。ということなんです。
自分の心に耳を傾け、それに素直になるしか、解決策はない。
人は、自分のやるべきことや、やりたいこと、興味があることに没頭し打ち込んでいれば、他人が何をしているか、他人からどう思われているかなんで気にならない。
もしあなたが、対人関係を維持するために心をすり減らしているとしたら、自分の内面に意識を向け、自分の素直な本音を優先させてほしい。
当たり前のことですが、他人を幸せにするためには、まずは自分を満たさなければいけないよね。
他人の期待に応えたいなら、あなたは自分の “ 素直な本音 ” にきちんと応える人になるべきじゃないですか?
逆に、自分の “ 素直な本音 ” を後回しにしてばかりだと、周囲もあなたをそんな「キャラ」だと思うだろう。
それは束縛の始まりです。その背伸びした「キャラ」をこれからずっと演じ続けなくてはいけないのだから、束縛の何物でもないのだ。
素直な本音
自分の内側に目を向けよう。
こう言われてもなんかこう、「ピン」とこないかもしれません。
「周りの目を気にせず、自分のやりたいこととか、するべきことをしろってことだろ」とい思っていらっしゃるかもしれません。
そういうことではあるのですが、その解釈では結局、「どこかの誰かが言ったからこうするべきだ」という、自分の本音ではなく、他人の「べき」に従っているだけになってしまいます。
先ほど、「自分の “ 素直な本音 ” にきちんと応える人になるべき」といいました。
素直な本音って何ですか?何だと思いますか?
僕がここでいってる素直な本音とは、一言でいうと、「直感」です。
素直に直感に従うことで、自分の内側の素直な本音に意識が向けられ、他人に操られる虚無感から解放されるだろうということだ。
僕は、約40年間、紆余曲折なギリギリの人生で何とかここまでやってはこれました。
なんとかここまでやってこれたのは、ことがうまく運ぶことが度々あり、限界ギリギリのところで「運」のようなものに救われてきたように感じるのです。
それは、どういう時かというと、いつも「自分の心に素直になった時」だったんです。
人は周りの流行りものとかに敏感になり、「自分もしなきゃ」とか、「みんながしてるから」「成功した人はこうしたから」など、他人のものさしで、何でも意思決定してしまう傾向にあります。
だけど僕は、ひねくれ精神があるがゆえに、人がやっているからするとかムチャクチャ嫌いで、自分は「したい」「今こそするときだ」という直感で意思決定をします。
他人との関わりは大切だし、関わる事で救われ、楽しむこともできる、だから人との関わりを遮断したいというのではなく、相手は相手、自分は自分という、適度な壁を持ちたいだけなんだ。
自分の素直な直感にしたがい、「やるべきか、やらざるべきか」、「今するべき時か」「まだ様子を見る時なのか」という、自分の心に素直になった「直感」という判断基準でコトを決定するようにしています。
まぁ、平たく言うと、「やりたいか」「やりたくないか」という素直な気持ちで判断し行動するということや。
人がしてるからするとか、虫唾が走る。な、ひねくれてるやろ。
でも、なぜか不思議とそうすることで、コトが上手く運ぶことが多い。理由はわかりません。残念ながら。
まだ誰もがやってないことに興味があり気が付けば世の中がそれにフィーバーしてたってこともある。もうパイオニア気分ですよ。偶然の。
だけど、「人がしてるから僕もやろう」という他者の判断基準に従うと、どうもしっくりこないし、モヤモヤ感ばかりが募ってしまうんです。
その典型が、例えば 「SNS」 。
今はすっごい誰もが「SNS」をしまくってるけど、僕はなるべくハマり過ぎないように、あえて心がけている。
理由は単純で、自分の素直な気持ちにフタをして、「いいね」とか「コメント」とかにがんばる必要はないと思っているからです。
面白いんだったらするけど、どうも面白味が沸いてこない。
それに、現実的な事を言ってしまうと、「いいね」とか、コメント、評価ボタン、登録ボタンなどはすべて、グーグル、フェイスブックといったプラットフォーマーのデータ収集の餌食になっているに過ぎなかったりする。
AI(人工知能)IOT技術を始め、ブロックチェーンという画期的な取引技術などの、全ての基となるビックデータの収集としての「ボタン」なのです。
今はこれらの莫大なデータを必要とするため、検索エンジンやフェイスブック、ユーチューブ、ツイッターなど、誰もが喜んでデータを差し上げることができるのは、無料だから。
無料と聞くと、誰だって使ってみようってなるよね。だから、これだけ流行になる、そしてデータ収集もすすむ。
無料提供しているプラットフォーム企業は、いずれ回収するべき時が必ずくる。その時はもしかすると「有料化」の可能性もあるわけ。
有料化になると、どれだけの利用者が減るだろうか?「SNS」の利用者数はどうなる?「ユーチューブ」の利用者数はどうなる?ツイッターの利用者数は?
亡くなってしまうということは考えられないのですが、5Gのデータ力をとりれることで、今のありふれたいかにも無料って仕様で終わるはずがない。
有料化にすることで、もっと便利な仕様を取り入れ、たとえお金を支払っても利用したいといえるほどのコンテンツに仕上げるくらいは容易に考えられ、さらに、サブスク化という流れも大いにある。
テクノロジーの進化は常に進化しています。今あるがコンテンツが永遠にあるはずがなく、「次世代」はすでにもうそこまで来ているのだ。
とはいえ、こんな予測話はどーでもよくて、そんな「今、流行のツール」に、あえてがんばることはないんじゃないか?というのが僕の考えです。
これは僕に限ったことでしかないが、「がんばらなくてはならないことは、長続きしないが、面白いと思えることは、やめようとしてもやめられない」
だから、僕は、「人の心の探り合い」という面白くないものに、あえて(なるべく)ハマりすぎないようにして、自分の「素直にやりたい」という直感に従うように心がけている。
バーチャルな自分の姿をみるくらいなら、洗面台にある鏡の前に立って、自分の姿を見た方が、自分との対話に最適だとさえ思ってます。
何かヤバい奴のように受け止められてしまうのですが、鏡の前に立って、自分の容姿チェックをするのではなく、見るのは「自分の目」。
自分の目を見つめるようにすると、心を客観視できているような気がするのだ。ほんと怪しい奴だけどね。
でも、鏡で自分の姿を見つめた時、SNS上の背伸びしようとする自分の姿と、鏡に映った本来の自分の姿が、いかに乖離(かいり)しているかがわかってしまうのだ。
自分の心を見つめることで、自分のするべきことを見つけようとするが、他人の事を見ようとすると、他人の欠点を見つけようとします。
誰かの失敗をほくそえむ、誰かの欠点をあら捜しして、コメント欄にコメントするのが「いいたい事を言える人」ではありません。
ネット上で「いいね」されることはうれしいことではありますが、その「いいね」の数を保とうと、がんばる事はないと思う。
そこには、依存しかないから。
誰かに依存して生きるくらいなら、誰かに必要とされるくらいの「強い」自分を磨こうじゃないですか。
他人を幸せにするためには、まずは自分を満たさなければいけない。
だからこそ、自分の内面に意識を向け、「ジブン」という世界に二つとない肩書をしょってたってほしんだ。
木の根の太く、強くしよう
「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目には見えないんだよ」
今日、「星の王子さま」という小説を読んだ。たしかそんな話から始まった。
一本の「木」は、枝、葉っぱ、幹、根っこ、という構造になってます。
僕たちの体が、「幹」だとすると、枝と葉っぱは、見た目や容姿、行動、外部との関わりなど、目に見える部分です。
目に見えない部分は「根っこ」。つまり、自分の内面にある見えない心になるわけ。
木を支えているのは根っこ、がっしりとした根っこは、そう簡単には倒れはしない。
根っこは見えない。かんじんなことは、目に見えないんです。
「自分で、自分の心を見ないと、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目には見えないんだよ」
「星の王子さま」は、すごく単純なストーリーではあるが、読んだ人の心の状態とか、置かれた立場などの違いで捉えかたが異なるはずです。
そして、だれもが、何か「気づき」をえられる不思議な魔法がかけられた素敵な小説だと僕は思った。
まだ読んだことがない方は、ぜひとも読んでみて下さい。
一度読んだことがある方も、もう一度読んでみると、もしかすると、新たな気づきが得られるかもしれません。
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