今こそ「ひとりの時間」を楽しむ必要がありませんか

今こそ「ひとりの時間」を楽しむ必要がありませんか

ここ数年、異様な光景を目の当たりにすることがある。

僕は会社に車で通勤しているのですが、バス停にいる人、コンビニの前でフラフラしている学生、信号待ちの人など、特に朝はだれもがみんな、ひとり颯爽と自分の持ち場へと向かっています。

しかし、誰もが違う立場であるはずだが、誰もが「同じこと」をしています。

少しうつ伏せ気味な姿勢で、小さな液晶画面に目を凝らし、指をせわしなく動かしているのです。

ほとんどといっていいほどの人達が、「スマホ」やってる。

彼らが実際に何をしているのかハッキリはわからないが、思うにSNSで人の発言を読んだり、何やら書きこんだりしているようだ。

中には、無我夢中でゲームをしている人もいる。

考え事をしている人、物思いにふけっている人はほとんど見当たらない。

何をいまさら、ってことだと思います。

スマホは、辞書、インターネットでの検索、読書、音楽プレーヤー、学習系アプリなど、さまざまな機能をスマホ1台でカバーでき、あれこれ機器を持つ必要がなくなりました。

動画、ゲーム、音楽、本などが、今ではいつでもどこでも無料で利用できたりもする。

まさにスマホは「多機能」。なかでもとくに多くの方がメリットとして挙げていたのは「カメラ機能」かもしれません。

デジカメにも負けない写真が撮れるのはすごいことで、スマホのおかげでカメラを持ち歩かなくとも、日常の貴重な一瞬を簡単に写真として残せるようになった点は画期的です。

画像や動画などのデータのやりとりが容易にできるため、撮影した写真や動画を、手間をかけずに家族や友達に「共有」できるのも魅力。

トークアプリやLINEでの共有はもちろん、インスタやフェイスブック、ツイッターなどのSNSにアップロードして、多くの人に近況を報告することも可能です。

機能面からいうと、スマホは僕たちに無駄にしていた時間をグーッと短縮し、1日を24時間以上にしてくれたのかもしれません。

僕が会社に車で通勤しているのも、車という画期的なものがあるからこそ、通勤時間を短縮してくれているわけで、その分自由に使える時間を確保しているということに気づかないでいるのですね。

しかし、スマホがいくら多機能といえど、一日中釘付けになるほど利用したりはしないはず。

何をするにもスマホが必要になってしまうと、自由に使える時間を確保できるどころか、その反対になりそうです。

奪われた「ひとりの時間」

だけど、ほとんどの人が、かなりの時間をスマホしています。

やはり、SNSだろうね。

SNSを見ている人は、知人が何を言っているかが気になって仕方がないようです。

かつては、目の前にいない知人のことなど、いちいち気にせずに済んでいたのだが、今ではひとりでいる時も、インターネット上の「浅いつながり」から解放されない人が大勢います。

何か重要な情報が流れてはいないか、その情報に対して他の人はどう反応しているのだろうか、自分の投稿にだれか「いいね」してくれているか、既読になっているか、なっていなければ、「何しているのだろう」と、相手のプライベートを模索しようとしてしまう。

用もないのについつい見てしまう。相手の反応だけでなく、そのあいての感情や行動さえも気になり、SNSを開いてしまう。

こういった「見逃すことの恐怖」は、じっさい問題視されているとされています。

だれかからSNSでメッセージがくれば、すぐに適切な反応が求められる。気づかないままでいると、無視されたと思われかねない。

それどころか、「既読」になるため、あえて開かずに、いつ開こうかとタイミングを見計らっている人の方が多きことでしょう。

なにせ、「既読」になってしまうと、とりあえずレスしないと、悪いような気がしてしまうし、誤解されないように慎重に検討してから発信しないといけない。

そうこうしているうちに、あっという間に時間が過ぎてしまう。

僕は苦手だなぁ。他人に気づかうことは大切だけど、気を使いすぎるのはちょっとムリ。

もともと、ひとりでいる時間が好きな僕にとって、他人とのやり取りから離れられないのはストレスです。

いつも誰かとつながっていたい、誰かに反応してほしいとか、こういったやり取りが好きな人はいいとは思います。

だた、恐れているのは、つながり依存に陥ってしまうことです。

スマホは、一人一台なので、何かを検索している時も、ゲームをしている時も、SNSをしているときも、それぞれが「ひとりの時間」のように見えます。

だけど、全然ひとりじゃない、丸一日中、誰かとつながっているため、「ひとりの時間」を持てなくなっているのだ。

スマホ依存で悩む多くの人達は、「ひとりになりたい」と叫んでいるのだが、「ひとりになりたい。けど、なりたいくない」という心の葛藤があるのだろう。

あなたは、なぜ、現代人に「ひきこもり」が多くなってしまったと思いますか?

僕が思うに、「ひとりの時間」を失った事も起因していると思うのです。

群れから抜け出す勇気を

子供にも、大人の人の中でも増えつつある「ひきこもり」が多くなったせいか、「もっと人とのつながりを」と声掛けする人は沢山います。

僕も、「人とのつながり」のおかげでいろんな場面で救われてきたため、「つながる力」を高めようとすることは大賛成です。

しかし、その「つながる力」はリアルな現実社会ではなく、SNSなどの「ネット上でのつながり」になってしまっている。

先ほどもいいましたが、ネット上のつながりは、往々にして「ひとりの時間」を失いかねないほどの「束縛されたつながり」を感じます。

今や、「つながる力」を高めようと考えるよりも、「ひとりでいられる力」の欠如にどう対処するべきかを考えなくてはいけないのかもしれない。

少し前までは、ひとりになりたいと思った時、人の目から解放され、自由に慣れたりもしていた。

ところが、SNSが登場し普及したことにより、どこにいても四六時中人の目を意識せざるをえない人間関係ができあがってしまった。

SNSは他人の考えていることや、行動をこちらが知ることができると同時に、こちらが考えていることや行動が、他人に見えてしまうという面がある。

また、みんながどうしているかが気になる一方で、自分のことをみんながどう思っているかが気になってしまう。

これでは気の休まないのも当然です。

SNS依存に陥ってしまった人は、こんな気疲れから解放されたい、人の反応ばかり気にせず、もっと自由に振る舞いたい、自分のペースで過ごしたいと思うものの、SNSをやめることができないようだ。

それは、仲間のネットワークからこぼれ落ちるのが怖いから。

「ひとりになりたい。けど、なりたいくない」という心の葛藤がある。

まさに、「孤独の不安」と「群れる虚しさ」が共存してしまう、相当に深刻化しているといわざるを得ない状態だ。

もともと日本人は、「みんなと一緒でいたい」が大好きで、同調圧力に弱い傾向にある。

たえず、みんなはどうしているのか、みんなはどうするのかが気になって仕方がないのである。

この「他人を気にする心理」が強いがために、いつでもつながっていられるSNSの「つながり依存」を助長しているのかもしれない。

もともとは、「つながり」を求めてやっているはずのSNSなのに、その「つながり」を求めながらも、つながりに縛られ、うっとうしさに苦しめられている。

SNSの世界にどっぷし浸かる事によって、「空気読み」の姿勢がより強化され、「自分の本音が言えない関係」になってしまうのではないかと恐れています。

もっと自然に振る舞えるはずのリアルな付き合いの場でも、「本音を隠して空気読みに徹する」ようになってしまうクセが浸透し、バーチャルなネット社会がリアルな現実社会にまで浸食しかねないとさえ想像してしまう。

僕は、今のうちから、つながり過剰の状態を脱する必要もあると思う。

もっと自由になれる自分の時間を楽しむ「ひとり」の一時を大切にしてほしいのです。

日ごろの人間関係からいったん手を離し、静かで落ち着いた、「ひとりの時間」を過ごす。

たったこれだけのことで、何ともいえないような虚しさが、ふっと楽になった、という心地よさを感じるはずです。

ひとりの時は、すべて自分次第です。他の人が考えることによって弱められてしまわずに、自分自身の考えや意見を発展させることもできます。

一旦、ひとりでいることを楽しむようになれば、他人の考えに束縛されることなく、自分には本当は何ができるのかを発見することもできるでしょう。

心の知能指数「EQ」というものがありまして、この「EQ」は、自分自身や、他人の感情を認識し理解する能力である。自分の行動や、人間関係をうまく管理することにも使われます。

ある調査では、会社の業績優秀なひとは、EQ値が高いという結果がでているとされています。

心の知能指数「EQ」を高めるための基礎となるのが自己認識力。

自己を認識するためには、自分の感情や人間関係、状況に対して自分がどのように反応するかを理解することが必要であります。

これは注意深い内省を伴い、一番内省しやすいのは、まさに「ひとりの時」なのです。

自己認識力が高いということは、自分のことがどれだけよくわかっているのかということであり、自己表現力や自己肯定感につながります。

自己認識力が高い人は、自分にはどのような能力があり、何が目標なのかをしっかりと把握しています。

さらに他者の見方や意見を重要視し、積極的に求めていくことができ、自分自身への認識と、周囲や部下からの認識に差が少ないので、共感できる点が多く生まれ、信頼に繋がります。

自己認識力が高い人は、とても良好な人間関係を構築することもできるわけです。

「ひとりの時間」で得られることは、もっともっとあるはずです。

つながる力も大切ですが、ひとりになり、自己認識力を高めることもすごく大切なスキルだと思う。

「キズナ」とか、「つながり」が大切なのは、リアルな現実社会でこそ意味があって、ネット上でのつながりは、情報交換のやりとり程度にしておいた方がいいのではないかと思ったりする。

もし、あなたが、つながり過剰気味だというならば、是非とも、群れない勇気をもって、「ひとりの時間」を取り戻し、自分に「自信を充電」する機会を与えてほしいとおもいます。

ひとりになれる一時は、思っている以上に楽しいものですから。

「浅いつながり」の懸念

僕は先ほど、SNSは「浅いつながり」だと(失礼にも)いいました。

なぜ「浅いつながり」なのかというと、そもそもネット上のつながりは現実社会のつながりとは大きく性質が違う。

まず、つながれる人数の違いです。

SNSを積極的に使いこなすと、やりとりのある知人が数百人になることも大いにあります。

そんな大人数とやりとりを維持するのは現実社会では、ほぼ無理でしょう。

数十人、数百人、といったSNS上の知人のなかで、おそらくだが、やりとりしている相手は、わずかな数人だけではないだろうか。

何も必ずやりとりをしなくてはいけないということではありません。相手が一方的に好意で知人としてつながる方もいるわけで、必ずしもやりとりがないから良くないわけではありません。

じっさい現実社会の人脈も、やりとりの機会があまりない知人もいるわけであって、「浅いつながり」であることは否めないが、僕の「いい方」が悪いだけかもしれませんね。

ただ、僕が「浅い」といった本当の理由はこれではなくて、もっと別のことろにある。

それは、つながりを自分で選択できるところです。自己中心的なつながりを可能とし、自分の考え方や価値観を固定させてしまう、柔軟性を失いかねない恐れがあるのだ。

現実社会では、ご近所さんや、職場の上司や部下、同僚とのつき合いの中で、気の合わない相手と付きあわなければならないことは往々にあります。

気の合わない相手とのやりとりは嫌なものです。できれば縁を切ってしまいたくなるほどでしょう。

僕も、冒頭でいった通り、もともと他人とのやりとりが苦手で、気の合わない人との接触はストレスたまりまくりになります。

だけど、気の合わない相手とも、努力して何とかうまくやっていかねばならないのが現実社会です。

苦手な相手とやりとりは避けられないがために、ストレスばかりがたまるわけではなく、大切な「気づき」を得ることができたりするのだ。

自分では気づかない考え方の甘さや偏見に気づかされたり、自分の感受性の特殊さに気づかされたりもする。

リアルな現実社会においての「人間関係」は、めんどくさくてわずらわしいことばかりが目立ってしまうが、本当は、自分の良くないところに気づかされたり、また相手の良くないところにも指摘してあげたりするなかで、「良いつながり」になっているのだろう。

しかし、ネット上のつながりは、気の合わない相手、不快な相手とわざわざ繋がる必要はなくて、気の合う相手とやり取りばかりで心地よく過ごすことができる。

考え方や感受性、価値観の合わない人とは、全く別世界の住人として切り捨ててしまうことができるため、本当に「深いつながりが持てる人」を選択し、自らがコントロールできる、すなわち自己中心的なつながり方といえる。

このようなネット環境に依存しすぎると、厳しいことをいってくれる相手や、考え方や感受性の違う相手とのやりとりが少なってしまいかねません。

そうすると、自身についての気づきが得られず、自分を客観視的に見つめるてもらえる機会を失ってしまうと思うがどうでしょうか。

今は、個人で働くフリーランスになる人が増えました。会社勤務という組織でやりきれなくて、個人がやりたいことができる働き方を希望する人も多くいます。

こういった人の人脈といえば、SNSなどのネット上でのつながりがほとんどで、気の合う人だけに限定したつながりを可能としますよね。

また、社会人だけでなく、個人という価値観は子供にも影響しつつあって、学校に行かなくても自宅でネットで学習すればいい、という流れさえ目にすることがあります。

子供の内から、気の合う友人だけのつながりが当たり前になってしまうとどうなると思いますか?

だれが、その子の考え方や感受性を指摘してくれるのだろうか、いろんな人とのやりとりなしで、自分の気づけないところに気づくことができようか。

学校に通い、友だちとケンカすることもあるし、子供なりにライバル心をもつ子もいて、リアルな友人や先生との、やりとりの中で得られるものがどれほど大きなものかは、ここに記すこともないでしょう。

自分という人物は、他人を相手にした時、「できる人」「頼れる人」「任せられる人」など、いやらしくもそうありたいと思うはずです。

そのためには、自分とは異質な相手との関わりを通して、自分の偏りや弱点、足りない面について気づきを得ることがすごく大切です。

つまり、現実社会でのわすらわしいと思える人間関係は、自分を率直に映し出す鏡となるような人間関係であって、自分を高めるためにも欠かせないものなのです。

人脈づくりは大切だが

SNSの発達により、簡単に人とつながることができるようになった。リアルな現実社会では出会うこともない人達でさえ、SNSを通じてつながる事ができる。

そんなつながりで目立つのが、自分の属する業界内外でさまざまな人物とつながることで、あたかも自分が「スゴイ自分」になったかのように振る舞ってしまう人もいる。

自分はこれだけの人達とつながっている、自分の発信をみるがいい、と自慢げに見せびらかしてしまう人も少なからず「未だに」いるようです。

こういった人達は、とにもかくにも「人脈」を重要視する傾向があるいいます。

何をするにも人脈が大切だ、といって人脈づくりに余念のない人ほど、「自分を魅せる」傾向にあるという。

確かに人脈はすごく大切なことは言うまでもありません。人は1人で生きているわけではなく、助けられたりすることもあります。

しかし、「人脈、人脈」といって人とつながる事ばかりを考えてしまうのはどうだろうか。

世の中で活躍している人がすごい人脈をもっていることはありえるが、その人脈は、その人の「実力」を発揮し、何かしらの道で頭角を表すことによって、徐々に築かれてきたものなのではないだろうか。

失礼かもしれないが、仕事ができない人ほど「人脈、人脈」といって、人とつながることばかりを考えている気がしてならない。

仕事ができる人は、やらなければならないことに没頭するため、人脈づくりのために奔走(ほんそう)することはなくて、実力を発揮することで自然と人脈ができているのが実際なはず。

SNSで浅いつながりを揶揄するつもりはないが、人脈づくりをたいせつになるのであるなら、「自分の実力をつける」ことが前提であることを知っておいてほしい。