「同調」から「協調性」のある多様化社会を目指して

「同調」から「協調性」のある多様化社会を目指して

“ 同調 ” と “ 協調 ”

この2つの言葉の違いはわかりますか?

「同調」というのは、 “ 他の調子に合わせる ” とか “ 調子が同じこと ” とか。もっと言えば、 “ 他の人の意見に合わせる ” なんてことがいわれます。

一方「協調」とは、 “ 利害や立場などの異なるものどうしが協力し合うこと ” とか。つまり、 “ 自分の意見を大切にするが他人の意見も併せて協力する ” こと。

「協調」とは、性格や意見などの違う者どうしが互いに譲りあって双方の調和と均衡を保とうとすることです。

性格や意見の違う者どうしの協力とは、いってみればお互いに「個性」があり、それぞれの個性をつぶし合うことはありません。

「人はそれぞれ違う」。このことを認識し理解しあえることが大切で、違うけども、お互いの個性を尊重しあって調和していこうとすることが社会で生きていくことであり、それこそが「協調性」だと思う。

私たちは、子供の頃から「協調性を持ちなさい」「困ったときはお互い様。協力しあうことが大切」と言われて教育されてきました。

だが、実際私たちが言われてきた「協調性」には、人ぞれぞれが持つ価値感による「個性」なんてものは二の次に過ぎなかった。

日本人が言う協調性のには、お互いを協力しあう以外にも、「周りに合わせる」という意味が含まれている。

「みんながしてるから」「他の人がそうしてるから」「みんなが言ってるから」など、周りに合わせることが正しいという価値観を知らず知らずのうちに刷り込まれてきた。

周りの人に合わせないと「悪いこと」「まずいこと」「変に思われること」とさえ強く認識し、周りに合わせることで協調性を保とうとしたのではないだろうか。

また、そうすることが「協調性がある人」だとされてきた。

レストランで注文するときも、誰か一人が注文すると、周りの人は「私もそれで。」「俺も。」「同じでお願いします。」

周りに合わせる、人と同じにする。こういった態度は協調性ではなく「同調性」になります。

私たち多くの人が認識していた「協調性」は、実は周りにあわせようとする「同調性」も含まれているのです。

単に人と合わせたり、人につられたり、人のマネをして同じことをすることが「協調性がある」ということではありません。それは「同調性」にすぎないのです。

ですが、私たちはなぜ、周りに合わせ個性を埋没させる「同調性」をあえて選択肢するのだろうか?

それは、人は自分の意志とは関係なく多数派の行動や親密な人の行動を真似する心理が働くからでもあるのです。

同調行動

他人と同じ行動をしてしまう。なぜか。では、次の2つの事例をみてみよう。

あなたはいつものように、街なかを歩いていた時の事です。少し先に、2人の男性がなにやら上の方を見上げている模様。

それは田舎者が都会に出向き、そびえたつ高層ビルに圧倒視された「見上げる」ではなく、なにやら注目すべきものを確認したらしい。

上を見上げる2人男性に釣られるように、横を通りすがる人達はほぼみんな、同じように上方を一瞬上を見上げ、再び歩き始めている。

さて、あなたはどう感じ、どういった行動にでますか?

おそらくあなたは、(上に何があるの・・?)と気になりそして、皆と同じように、「上を見上げる」行動をとるはずです。

ネット通販でのお買物をする際、あなたは何を理由に「購入」を決定づけとしますか?

例えば、「誰かの意見を参考にしてしまう」「クチコミサイトなどの他の人のレビュー・意見を調べ、いい意見があったら買う」という買い方をしていることはあるはずです。

値段や商品の内容に関わらず、今やあらゆるものを買うときにまずネットにある情報や評判を検索してから購入を決めるのは、昨今当たり前のことかもしれません。

また、自分が欲しいと思ったものがあっても、ネットの評判が悪くネガティブなレビュー投稿がたくさんついていると「やっぱ買うのをやめよう…」となってしまうのも、今のご時世ならよくあることです。

皆が揃ってマイナスレビューをつけている中、逆張りして買うのは勇気が必要ですし、やっぱりダメだったらどうしよう…という不安もあるので、なかなかできないものです。

さて、「見上げる2人の男性」と「購入決定は口コミを参考にする」共通点がなさそうな、内容の異なる事例ではありますが、唯一「共通していること」は、「みんなと同じ行動をとってしまう」です。

人は自分の意志とは関係なく多数派の行動や親密な人の行動を真似する傾向がある。心理学では「同調」という。「同調行動」または「同調効果」ともいいます。

人はなぜ、複数の人達と同じ行動を無意識にしてしまうのでしょうか?

一つは、みんな同じだという「安心感」を得るため。

これはつまり、仲良くなりたい、嫌われたくないという心理もあるが、間違いを犯したくない、正解を知りたい、つまり、「自分の意見に自信がない」と捉える事もできます。

とはいっても、多数派とは逆の行動をとる人を「自分に自信がある人」だと捉えるのは誤りです。正しく言うと、「自分の自信さえもすり替えられてしまうことがある」ということです。

人と同じ行動をとってしまうのは「同調」という自然な心理であるといいました。

しかし、時として「みんなと同じ」選択基準を優先させてしまうと、そこから身動きが取れない恐れがある。

たとえそれが、世の非常識であったとしても常識と化し、悪化すると周りの人に溶け込んだあなた自身も硬直状態になってしまう事があります。

エスカレーターの「片側空け」は全国各地でよく見かける習慣だが、実は「歩行禁止」が最新のルールだということをご存じだろうか?

隣をすり抜ける際、荷物や体などが接触して思わぬ転倒事故を引き起こす恐れがあるためです。いつのころからか、エスカレーターの片側は歩いてのぼる(あるいは降りる)人のために空けておくようになった。

関東では右側、関西では左側を空けておくというローカルな暗黙のルールまで出来上がっているとされる。しかし、エスカレーターは本来、歩くためのものではなく、正しくは立ち止まって乗るものです。

ところが、大都市の主要駅などで「歩行禁止」を守っている場面はあまり見当たらない。これは、典型的な「同調行動」によるものだ。

事の始まりは不明だが、エスカレーターの片側は、「雀の子そこのけそこのけお馬が通る」的な暗黙のルール正解だと認識してしまった。

仮に、「エスカレーターは歩行禁止だ」という正式なルールを存じている方がいるとしよう。

その方はやがて「同調行動」という魔物に憑依され、人と一緒でありたい、逸れものでいたくない、自分の中の確固たる正解は崩れ始め、やがてルールを守る自信がどうでもいいという心理が働きかねないと想定される。

そう、「自分の自信さえもすり替えられてしまうことがある」ということです。

「みんながそうしているから」

私たちが無意識に行なっている「同調行動」は必ずしも正しいとは限らないことに気付くはずです。

最も恐れるのは、それが習慣になってしまうと、たとえ悪習であろうと疑うことなく奴隷のように支配され、そこから身動きが取れない硬直状態になってしまうことだ。

個人レベルの悪い習慣なら、周囲の人と比較することで割合簡単に気付くことができます。

しかし、集団で築き上げた悪習はなかなか気づきににくいもの。世の中には「エスカレーターの片側開け」のような同調行動が生み出した悪しき習慣は多々あります。

例えば、値下げ合戦による価格競争が激化し、業態全体が失速してしまう赤字転落。

赤信号なのに、他の歩行者が渡っていたら、自分も「渡ってしまおう」という交通違反。赤信号みんなで渡れば怖くない??

多様化社会に必要なのは「協調性」

「同調」という無意識に支配されないためには、「協調」という意識を持つことが大切。

同調と協調は、人と「調」を合わせる意味では同じですが、「同調」は、他人の「調」に同じるを意味するが、「協調」は、自分と他人との「調」が協うを意味します。

人は誰しも「孤独」を嫌がる。

自分という存在がこの世界に全く属していなくて、誰からも必要とされることもなく、存在そのものが危険に晒せれている。

そのような状況を自分自身が被っていることに耐える強さがない、だから皆よ同じ空気感を大切にするべきだ・・・と。

しかし、その孤独への恐怖が、同調の強要を生み、自分自身に偽りの安心感を与えてはいないだろうか?

そこで、よく考察いただきたい。

同調は個人を尊重しないが、協調は個人を尊重するということを。

同調は基本、相手を尊重していません。相手の考えや行動は考慮の対象に決して入らないため、同調で結ばれた集団は周りの人を無視した自分本位の自己中心的な集まりであることのほうが多くなってしまう。

一方、協調は、一人ひとりの考え方や価値観や性格は違うという前提、つまり個人を尊重することを前提に立ってるので、独りよがりではない、全体のことを考える強い集団をつくる。

つまり、個人を尊重しないで協力する同調性ではなく、「個人を尊重して協力する協調性」を大切にするべきではないかと思う。

とある論語には「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」という言葉があります。これは、「すぐれた人物は、協調はするが主体性を失わず、むやみに同調したりしない。

つまらない人物はたやすく同調するが、自主性を欠き、世の本質を見落としがちになるとされる。

お気づきだと思うが、昨今、情報量が爆発的に増加したことで、垣根をこえた「多様性(ダイバーシティ)」が露呈してきた。

「男性」「女性」とか、「大人」「子供」など、「」(カギ括弧)でくくられてきたかつての常識的な線引きは薄れつつあります。

人口減少、少子高齢化など国内の問題を考慮することも必要だが、多様化する社会だからこそ、お互いの「つながり」を強化しなくてはいけないのではないでしょうか。

それは、周りに合わせる「同調性」ではなく、「個人を尊重して協力する協調性」による多様化社会、ユニバーサルダイバーシティを目指すべきなのだ。

協調性のない多様化は、それは単に「孤独な多様化社会」になってしまう事さえ無きにしもあらず。

自分の価値観を大切にし、他人の価値観を尊重する。

価値観と価値観がつながることが「絆」であり、少数派の価値観が多数派の価値観に合わせるのは、もはやそれは「支配」のなにものでもない。

白から黒に染まるのではなく、白と黒が合わさって灰色という新たな発想、赤と青は別モノではなく、赤と青が合わさった「紫」というイノベーション。

「1+1=2」の固定観念を捨て、「1+1=3」になる、今まででは考えられない未来。それがイノベーションというもの。