「知恵」を働かせるために必要な条件

僕たちは、子どもの頃から学校の授業でいろいろと教わり勉強してきました。
そこで得られるものは、やはり「知識」でしょう。
その知識量は、たくさん勉強した子は多くの知識を取り入れるだろうし、あまり勉強をしなかった子は、たくさん勉強した子よりも知識量も少ないかもしれません。
僕は、すごく勉強をしなかった子だったので、よく「ホントに何も知らない奴だなー」って、成人になってから、いろんな人に「物知らず」の烙印を押されてきたもんだ。
「知識」を増やすことでモノゴトがより詳しく見えてくることは確かです。
仕事に役立つ「知識」を10個扱えるのと100個扱えるのとでは、仕事の結果が変わってくる。
知識を数多く持っていることで、何か困ったことが起こったときにも、他に道はないか探ることができ、別の方法を試すことができます。つまり、応用がきくというもの。
このように、多くの人は学生のときに教科書で様々な「知識」をつけてきました。これは大人になっても同じで、知識の習得は永遠ともいえる。
ところで、学ぶ事で得られる知識に対して、「知恵」に関してはどうだろうか?
子供のころから「知恵」に関することは具体的に教わることはなかったようにも思えるがどうでしょうか?
どちらかというと、いつの間にか知恵がついてきた、という感じもします。
「知識」と「知恵」は異なるものなのだろうか?
知恵が働く人とそうでない人とは、知識の量とは全く関係ないことだとおもいますか?
知恵に意味をしらべてみると、物事の道理を判断し処理していく心の働き。物事の筋道を立て、計画し、正しく処理していく能力。(デジタル大辞泉)と記されている。
要は、与えられた物事を状況に応じて、的確に処理していく能力ということになります。
効率的に物事をこなせると、知恵が働く人で、悪いことに処理してしまうと、悪知恵が働く人なんていったりもする。
知恵をより多く働かせることができる人は、何が違うのでしょうか?
ひらめきや発想力がある人か、創造力が豊かな人でしょうか?
「知恵」というものは、知識のような、頭の中に入れておく記憶ではないため、学校の授業で教わる事はできません。
ですが、僕たちはいつの間にか「知識」という能力を個人差はあるけど身につけてはいる。
というのは、知恵は、知識のつながりだからです。
「点」と「線」
「知識」は、物事を知ることで、「知恵」は、物事の筋道を立てて正しく処理していく能力、ということでした。
これはつまり、「知識」を使って、問題を解決していく能力を「知恵」だといえます。
「知識」は、人が頭の中に入れるデータのことで、そのデータを使って問題を解決していく能力が「知恵」。
知識がなければ、知恵が働くことはないということになります。
知識が「点」ならば、その点を結んだ「線」が知恵ということになり、その知恵の高さは、知識の量があるほどに知恵の量も多くなるといえる。
そう考えると、やはり子どもの頃からちゃんと勉強をして多くの知識を得ることが、大人になってからのあらゆる問題解決に影響を与えるのだということなのでしょう。
しかし、知識ばかりが多くあっても、それ自体は単なるデータでしかないため、物事を処理していくことはできません。
それに、「知識」というものは、誰かに教わることがほとんどで、その教わったデータ通りに記憶する。
その記憶した知識ばかりに捉われてしまうと、目の前で起こっていることを、素直にありのままに見ることが難しくなるということがある。
例えば、あなたは、晴れた日に、夜空の星を見上げることはあるだろうか?
そんなロマンにふけることはあまりないかもしれませんが、夜空に広がる一面の星をみたとき、あなたは必ず「星座」を見つけようとはしませんか?
あれは、オリオン座だ、あれが北斗七星だ、ふたご座は・・・など、「点」でしかない星たちを、自然と「線」にしてつなげ、当たり前のように、教わってきた星座をみようとするのではないだろうか?
夜空にかがやく星たち。地球から肉眼で見える星たちは、約3000個ほどといわれている。
そんなたくさんの星の中で、昔の人たちは、豊かな想像力で「星座」をつくったとされる。
今から約5千年前、今のようにカレンダーも地図もない時代、方角を知るために昔の人々は、太陽や月、星の位置を目印にしていました。
そして星は、数ある星を線で結び道具や動物などに見立てたことが「星座」の始まりなんだそうです。
その星座は後世に語り継がれていくうちに、ギリシャ神話や各国の伝説となって、現在の僕たちは夜空一面の星(点)たちを、星座(線)として教わっているわけなんですね。
ステキな話です。素敵なことではあるのですが、僕たちが教わってきた星座は「知識」です。
点でしかない星を、星座という線にして、あれがしし座、あれはうお座、というように、教わった知識でしか物事を見るのが当たり前になっているということです。
もし仮に、星座を教わってこなければ、もしかすると、夜空一面の点である星を見た時、「あれはなんだかクジラに見える」とか、全く違った線を結び、自分が見たままの星座をつくっているかもしれない。
何がいいたいかというと、知識ばかりに捉われてしまうと、知識(点)を知恵(線)にする考え方が、あなたも中で取り入れたデータ通りになるため、教わってきた「星座」でしか見ることができなくなってしまう。
知識にたよると、ある種の固定観念に捉われ、全く違った問題解決の方法に気づきにくくなることがあるということです。
逆に、知識があまりない状態で、知恵を働かせようとすると、先ほどのように夜空の星を「あれはなんだかクジラに見える」という独自の知識として記憶してしまいます。
もちろん、夜空の星たちをいろんな形に見ることは何も悪くないが、社会で、「あの星はクジラなんです」といっても、受け入れないことの方が多い。
知恵とは、知識というデータを元に、正しく処理する能力だといいました。
知識ばかりを取り入れても、それ単体ではただのデータの記憶、データの蓄積にすぎないため、そのデータを正しく処理する知恵は働かない。
「知識」を「知恵」に変える重要な要素とは
では、どうすれば知識を知恵にし、あらゆるものごとの問題を解決する能力を高めることができるのでしょうか。
そこで、重要になってくるのが、「経験」です。
知識というデータがどんなものなのかを「理解」するには、実際そのデータを使わない限りはデータを使わなければわからない。
つまり、「行動」しなければ、データが活用されないわけで、知識(データ)をどう使うか以前の問題です。
知識はあくまで頭の中のデータ、たくさん行動し、そのデータをあーでもないこーでもないと使いまくり、試行錯誤を繰り返すことで、新たな「知恵」が生まれる。
ある知識である「点」と、別の知識である「点」をつなげることができるのは、行動を伴った「経験」です。
たくさん行動し、多くの経験をすることで、さまざまな点と点を結んだ「線」、すなわち「知恵」が発揮される。
やり方を知っているか知らないかという「知識」、実際にやったことがあるかどうかの「経験」、この2つがあってはじめて「知恵」が生まれます。
つまり、僕たちが仕事でも、日常でも、物事に対してどう処理するかという「知恵」を働かせるためには、
「知識 × 経験 = 知恵」
多くの知識を取り入れ、その取り入れた知識をちゃんと「行動」にうつすことで、「知恵」というものが発揮されるのです。
溢れる情報の中からたくさんの知識を取り入れても、行動し経験しない限りは、「知恵」は生れはしない。
しかし、その情報そのものを知識として記憶してしまうと、先ほどの「教わってきた星座を探す」という、決まった行動でしか動こうとしないし、そうとしか考えない。
なので、知識はより多く取り入れた方が、多くの知恵は発揮されないけれど、知識に捉われすぎてしまっても、新たなイノベーションになりうる「知恵」も働かない。
やはり、重要になるのは、「行動」であり、「挑戦」です。
一つの行動だけでは、点と点を線にする「知恵」は一つしか生まれない。
新しいことや、苦手な事、無理だと思っていることに挑戦し、多くの経験を重ねることで、点と点を結ぶ線の量は多くなり、さらに線と線を結ぶことで、「あれはクジラに見える」という独自の発想が生まれるのだ。