「アメとムチ」で “ やる気 ” を引き出せるのか?

「アメとムチ」で “ やる気 ” を引き出せるのか?

今を去ること143年前のことである。

明治初期、北海道開拓のための人材育成を目的とした「札幌農学校(現在の北海道大学)」が設立された。

その時の教頭に就任したのは、アメリカのマサチューセッツ農科大学学長を務めていた外国人の方でした。

彼の名前は、ウィリアム・スミス・クラーク博士。

北海道開拓のため、開校当初から熱心に生徒を教育したクラーク博士の在籍期間は、わずか8ヶ月という短いものだった。

しかし、クラーク博士は晩年(残りの余生)に「札幌で過ごした8ヶ月こそ私の人生で最も輝かしい時間だった」という言葉を残しております。

それだけ北海道や日本の農業・酪農ために尽力してくださったことが伺えます。このことからもクラーク博士は「北海道開拓の父」とも呼ばれています。

クラーク博士の詳しい話はここでは割愛させていただきますが、彼が残した名言は、人生の岐路において最善の決断をする勇気を貰い、たくさんの人の心を励ましたのではないだろうか。

Boys, be ambitious!

= 少年よ大志を抱け!

僕は、このクラーク博士の言葉の意味を、この年になるまでこう解釈していた。

若者よ小さくまとまらないで、失敗を恐れずにでっかい夢をもて、と。

僕のこの解釈には大きな誤りがある事に気づかれたでしょうか。

クラーク博士の「大志を抱け」とは、大きな志、つまり「野心」をもて、といったニュアンスであるはずだが、僕は、「大きな夢(目標)」を持つことが必要なのだと思っていた。

だが、「野心に燃えろ」と言われても、大人である今の僕でさえあまりにも抽象的すぎます。ましてや子どもである少年(少女)はどう捉えていたのだろうか?

ですが、若者であろうが、大人であろうが、どう捉えるかは本人次第で、本当の解釈を求めることに意味はないのかもしれない。

実は、この「少年よ大志を抱け!」という言葉の意味をクラーク博士がどういった本質で述べたのかを未だにだれも知らないという。

多くの方がこの名言に込められた言葉の意味を解明しようとされてはいるが、そのほとんどが、夢を抱きこれから挑戦を試みるチャレンジャー達に向けた激励の言葉だと解き明かしてはいる。

ここからは僕自身だけの捉え方です

この「挑戦者に向けた名言」を勝手に解釈させていただくとするならば、若者に対する指導方針の本質を捉えているのではないだろうかと思った。

若者をはじめとする挑戦者達が目標とする夢をどう描き、物事に対する心構えをどう抱くのかを、親や先生、上司などの教育者や指導者に向けた言葉ではないかだろうか。

平たく(?)言うと、本質的な「やる気の出し方」についてクラーク博士は言いたかった、つまりそれは、「やる気を起こさせる指導とは、こういうものである」と、僕は理解した。

なぜ、クラーク博士が「やる気の出し方」についての指導方針を述べようとしたかを僕が思ったのか?

その理由は、この名言の「続きの言葉」を読めばあなたも何かに気づかれるかもしれません。

ところでこの名言には続きの言葉があることを知ってはいただろうか?

実は、続きがあったというのは事実だが、その内容をどう解釈すればいいのかを誰もがわからず、彼の銅像に刻まれたのは、「Boys, be ambitious!」のみになったとされている。

その全文の中で僕が最も心を動かされた言葉を抜粋したいと思います。

少年よ大志を抱け

お金のためではなく、

私欲のためでもなく、

名声という空虚な志のためでもなく、

人はいかにあるべきか、

その道を全うするために、

少年よ大志を抱け、

 

この老人のように

あなたはこの名言を読んでどう思われただろうか?

僕は、こう解釈した。

ガンバルための「やる気」とは、ブレナイ本質的な野心を持つことである。

それは、お金を稼ぐためでもなく、自分だけの得や目先の利益だけに捉えらてしまうような短期的な私欲のためでもなく、地位や名誉という看板を背負いたいがためでもない。

こうような、馬の鼻先に人参をぶら下げ、それを食いつくそうとする欲望は、はたして己の野心と言えるのだろうか。やる気を起こさせる動機づけになるのであろうか?

いや、違う。そんな外的な動機づけは、叶えばその場限りの優越感を覚えるだろうが、叶わなければ劣等感を覚えるまでだ。

ガンバルための「やる気」とは、お金のため、名誉のため、ご褒美のためを動機とするのを、挑戦者たちは本当は求めてはいない。

人が「やる気」を起こす本質的な根源は、どんなに無気力に見える人であっても、心の奥底では「自分の意思で」「自分の気持ちで」何かに取り組みたい、頑張ってみたいと願っているもの。

この内なる真の動機に、指導に携わ者たちは、気づき伝えなくはならない。

人は誰でも、自分がいかにあるべきなのか、その道を全うする自分が何者であるかを証明したいと願っている。

究極のチャレンジとは、独自のスタイルと魅力を確立することである。

とまぁ、だらだらと書いてしまいましたが、要は、自分が成し遂げたい目標がありそれを支える「やる気」の動機付けは、カネや名誉といったエサにつられるようなことでは、本当にやりたかったことを見失いかねない。

だから、長期的にやる気を継続させ、生き生きとした意欲に満ちた人へと導くには、個性のスタイルと魅力を度外視した「アメとムチ」の指導であってはならない。

最後にクラーク博士は、「この老人のように」と記しておられるが、晩年を迎えた私(クラーク博士)から見る少年(若者)とは、少年少女、若き青年、熟年者を含めたすべての教育現場に携わる人達全てに対しての「若者」ではないかと思うです。

もう一度いいますが、この考えと捉えかたは、僕自身の勝手な解釈です。

あなたはあなた自身が素直な気持ちで心に刻み、あなた自身のスタイルを貫いてほしい。

また、「少年よ大志を抱け」と言う言葉から想像するクラーク博士の人物像は、人によって違いがあるでしょう。

あなた自身が彼の立場になってみると自ずと何かに気づけるのではないでしょうか。

「アメとムチ」に潜むこんな罠

さて、先ほど「アメとムチ」という言葉が出てきましたが、あなたはこの「アメとムチ」という指導方針をどう思いますか?

僕が知る限り「アメとムチ」というものは、たとえば、スポーツ選手を指導する場合、よく使われる「アメ」は「よっしゃ!」「そうだそれでいいんだ!」「やればできるじゃねぇか」のように、よくできたときに褒めること。

反対に「ムチ」というのは、難しい解釈になるのですが、具体的には「ビシッとしかる」「バシッとたたく」「怒鳴りつける」などといった、今では非難ゴーゴーとされている「きつめに叱る」というもの。非難されてはいるが、それにより相手が学ぶのは、「あ、間違えた」「これじゃダメなのか」ということに気づいてほしいという魂胆もあるはずなのです。

どうでしょうか?僕の解釈が正しいかどうかはわかりませんが、一般に言われる「アメとムチ」ではないだろうか?

そこで、僕は褒めるとする「アメ」ときつめに叱る「ムチ」を二刀流とする指導に対し、どこか疑問を感じてしまうのです。

指導をする際、ほめたり、または叱ったりすることは当然です。フィードバックがない指導なんて、タダの指示であり、多少なりとも感情がこめられたフィードバックは絶対だと思います。

だけど、「アメとムチ」という言葉だけをきくと、なんだか全か無か、0(ゼロ)か100かで、ほめると叱るを評価してしまっているのではないかと思うのです。

つまり、「○○ができたら」ほめる、「○○ができなかったら」叱る。

どうです?仮に子供がこの「アメとムチ」の方針で指導された時、「ほめてもらうために○○をがんばる」「叱らせないように○○をがんばる」という、本人の心の「外」に理由が存在して発生する「やる気」になってしまわないだろうか?

実際僕も、学生の頃の部活動で、コーチに叱られたくないから、褒めてもらいたいから、先輩にどなられたくないから、という理由で、どうにかこうにかその場をしのいで、イヤイヤ頑張っていた記憶がよみがえってくるのです。

がんばりたいのに、「本気のやる気」が湧かない。いくら熱心に教えてもらっても、気持ちが乗らない。

そんな経験はもしかすると、あなたにもあるのではないだろうか。

でも、「本気のやる気」が湧かない、気持ちの乗らないやらされ感を感じるのは、果たしてそれは、あなたのせいなのだろうか?

もしかすると、「やる気の出し方」を教わってこなかっただけなのではないだろうか?

よいことをしたら「アメ」を与え、悪いことをしたら「ムチ」を与える。そうやって高めることができる「やる気」は、アメを与える人に褒めてもらいたい、ムチを与える人に叱られたくない。

それは、上手くなりたい、上達したいという「内的なやる気」ではなく、全く異なる「外的なやる気」を動機付けとしてしまってはいないだろうか。

先ほど、「少年よ大志を抱け」の名言を残されたクラーク博士の言葉の続きに、次のような言葉があった。

お金のためではなく、

私欲のためでもなく、

名声という空虚な志のためでもなく、

人はいかにあるべきか、

その道を全うするために、

少年よ大志を抱け

この言葉の意味を捉えてみると、「仕事には興味はないが、おカネのために頑張る」「外回りをしたくはないが、上司にしかられるからやる」「お金のためにやむなく残業をする」といった、自分の心の「中」に興味や関心といった頑張る理由を持っているのではなく、お金や叱責のような、自分の心の「外」に理由が存在して発生する動機付けは、真のやる気は引き出せない。

こうしたやる気の引き出し方は、シンプルで即効性があることは確かだが、「自分の意思で」「自分の気持ちで」何かに取り組みたい、頑張ってみたいという「内的なやる気」を引き出すことができない。と。

これはつまり、僕が学生時分に経験した「コーチにほめられたいからがんばる」とか「先輩にどやされるのが嫌で無理やり真面目を装いがんばったフリをする」という、意図しない「やらされ感のやる気」と重なるモノがあるのです。

これこそまさに、目の前にニンジンを吊るしてハッパをかけられ、とりあえずは走っていたわけなんですよ。

本当は、上手になりたいはずだった僕は、ほめられたい、叱られたくないことが「目的」となってしまい、歪んだやる気でどうにかその場限りの「利益」を追求していたのだ。

そんな僕が、やがては大人になり、社会に出て仕事をし始めた時、サービス業だったのですが、「顧客第一」と指導されてはいるのですが、そんな目的はなく、上司の目が気になる、同僚の出世が気になるばかりで、外的要因を頼りに、がんばってきた。つもりでいたんです。

そのサービス業は辞めました。なぜか。会社の求める数字に限界を感じたから、今でこそ非難されている度が過ぎた「ムチ」に命の危険さえも感じたからです。

そしてそれは、僕自身のがんばる動機づけが、与えられるアメとムチにばかり気持が向き、その事への承認欲求ばかりに捉われたせいで、「会社の数字」とか、「度が過ぎた勤務体制」という外的な動機づけに手が届かず、崩れ去ってしまったのです。

若気の至りともいいましょうか、今でこそこのような、すれ違った「やる気」を抱くことは少なくなったが、それでもまだ、本質的な動機づけを勘違しているのではないかと思う事はある。

そんな理由もあり、クラーク博士の名言が僕自身の心に強く響いてくるのです。然るに、その指導方針にも、不可解な疑問を感じてしまったのだ。

アメとムチにとらわれ過ぎた僕がよくない事は否めないが、反対に、本質的なやる気を、アメを使ってそぎ落としてはならない。ムチをもって、「できなかったら叱られる」という流れを当たり前のように刷り込んではいけない。

なぜなら、本来求めている、社会という戦国舞台で戦う挑戦者達の「野心の志」を見失ってしまいかねないからだ。

今の時代こそ「アメ」と「アメなし」を

アメリカのUCLAバスケットボール・チームの伝説的コーチ、ジョン・ウッデンは、チームを12年間で10回に渡り、全米チャンピオンに導きました。

彼の打ち立てた記録は全スポーツを通して、歴史上のベストコーチと讃えられています。その彼の言葉に、「指導者とは、人々に意欲を起こさせるために、銃を必要としない人のことである」とあります。

彼の指導には大きな特徴があり、そのことについてお伝えしようと思う。

ジョン・ウッデンコーチの指導方針は、「アメ」と「アメなし」だったと研究からわかったとされる。

「アメ」と「アメなし」ということは、選手が指導通りできたときには「褒める」、そして、できないときには「褒めない」ことです。

また、選手がミスをしたときには、「バカやろう!」のように叱責するのではなく、「どうしたら、改善できるか?」に焦点を当てた指導をしていたということです。

選手が上手くできたときには、「よし!」「素晴らしい!」と褒め、上手くできていないときは、ミスをした時点ですぐ「やめ!」といってプレーを止めて、最初からやり直しをさせた。

ミスを続けた場合は、どんなミスが起こっているかをちゃんと説明し、さらに、“どうしたらミスを直せるか”を指導した。

それでもミスが直らない場合は、そのプレーを細かいステップに分解・細分化し、指導を繰り返したというのがウッデン方式の指導であるという。

この指導方法は、できたときには必ず褒める、ミスをしたときには罵倒するようなことはしない、プレーと関係ない「罰」を与えないという点が通常の「アメとムチ」の指導方法と大きく異なる点だ。

さらになんと、ウッデン方式は通常の「アメとムチ」の指導方法よりも10倍ほど選手の上達速度が上がったとされ、さらに興味深い結果として、ウッデン方式で選手が上達しても、通常の指導方法に直すと、せっかく上達した選手のパフォーマンスが落ちることも検証した結果分かったそうです。

要は、彼の指導方針の優れた視点は、「ムチ」ではなく、「ムチなし」であることはすぐに理解できるはずです。

「ムチ」に弊害があるとするならば、選手のモチベーションが「失敗しないように」ということに意識が行き、のびのびとプレーできなくなる、チームの雰囲気が悪くなる、プレーする喜びがなくなる、選手とコーチの良い人間関係の構築が起こらない、などが考えられます。

こんな「ムチ」では、それこそやる気の起こし方を知らない「無知」になりそうだ。なんなら、雨の日にムチられたら、雨と無知ができあがるじゃねぇか。

一方で、「アメなし」では、ミスを成長のためのプラスとして捉え、積極的に学ぼうという環境ができる、選手とコーチの良い人間関係が構築される、選手がプレーすることの喜びをさらに感じるようになる、チームがより良くまとまる、選手のパフォーマンスがさらに改善される、など、若干、持ち上げすぎかもしれないが、十分ありうる話ではないだろうか。

ムチを与える際は、「どうすればよかったのか」「どうやったらうまくいくのか」といった十分なフォローアップがなされないと、痛み以外の意味を与えません。

また、何度もその痛みを受けていると、「怒鳴られるとイヤだから、一切黙っておく」「たたかれると痛いから、目立たないようにする」という恐怖感はもちろん、無気力な性格を醸成してしまうこともあるのです。

今日の目標に一生懸命であれ!

では、心の底からの「やる気」を起こすにはどうすればよいでだろうか?

まず大事なことは、ちゃんと明確なゴールを持つこと。ゴールすなわち「目的」を揺るぎないものにしない限り、「アメとムチ」に振り回されるだけになってしまうからだ。

そして、目的を達対するための「目標」を設定するのだが、その目標があまりにも大きすぎては、かえってやる気を失ってしまうこともあります。

「100億円年収を目指す」とか「世界を相手にグローバルになる」とか、目標設定のプロセスがわかりずらいと何をしていいかわからず、やる気何て沸いてこないのが関の山。

冒頭で僕が、クラーク博士の「少年よ大志を抱け!」の言葉の意味を勘違いしていましたといったのを覚えているでしょうか?

僕が認識していたこの名言の意味は、「若者よ小さくまとまらないで、失敗を恐れずにでっかい夢をもて」だった。

そう、「でっかい夢をもて」ではなく、大志を抱けとは、「アメとムチに捉われない、てめーの揺るぎない本当の目的をもて!!」という事だったのだ。

僕は、でっかい夢を持つことが大志を抱くことだと勘違いしてしまったがために、目標がちゃんと定まらず、「アメとムチ」にばかり捉われ、目指すべき目標を見失いかけてしまっていたのだ。

目標とは、その立てられた旗へと近づくために、「今日は何をすればよいのか」「今日、どこまで進めばよいのか」といった、いますぐ動くための具体的な目印のこと。

遠すぎる目標を立てたとしても、今日の「アメとムチ」が目の前で容赦なく襲いかかってくる。

だから、「今するべきことは何か?」それをこなしていけば大丈夫だと明確に示される状況を作り、アメとムチに捉われない体制でいる事が必要なのだろう。

なんだか結局は、精神論になってしまったが、やる気なんてものは、アメを与えられようが、ムチを与えられようが、「それがどーした、かんけーねー」ってなくらいの気持ちで、今やる事にコミットするべきだと、僕は思う。

とはいっても、他人のフィードバックは自分の成長に大きな影響を与えるなくてはならないこと。

なので、そのアメやらムチやらのありがちフィードバックを、一度は試し、よければ受け入れ、ダメだと感じたらスルーすればいい。

そう、アメにするか、ムチにするかは、自分自身で決めていいのである。

少年よ、大志を抱け!!とは、然るに、負けねぇハートを持ち続けろ、ということなのか。わかんねーなー。考えるのはもうよそう。それより、今するべきことをやろう。

今日もここまで読んでくださいありがとうございました。

ではまた、次回の訪問を(すごくすごく)お持ちしております。

SEE YOU NEXT TIME !! バイバイ。